吹屋の町並み 
下町・中町・千枚・下谷
地図


下町の町並み
 成羽町吹屋は岡山県西部、標高500mの吉備高原の中にたたずむ。
吹屋の町並みは屋根の色が赤味を帯びている、関西では見慣れぬ石州瓦の鈍い赤色である。かって西日本一を誇った銅山と江戸中期に偶然発見されたベンガラの製造で昭和の初めまで繁栄を続けた町である。
銅山の起源については明らかでないが、ハキッリするのは天文年間(1532〜1554)に、地元の大塚孫一と松浦五右衛門が銅山稼ぎをしていた記録があるのが初めである。
戦国期には、石見大森銀山と同様に尼子・毛利両氏の間で争奪戦が演じられた。江戸期中幕府領である。
江戸時代初期では、短期的には他所の投機的な稼ぎも行われていたが、天和元年(1681)頃から豪商の泉屋(後の住友)が西日本一の銅山にしたが20年しか続かず、その後はまた大塚氏を中心とする地元の銅山師が稼業した。明治に入って三菱の岩崎弥太郎が経営し、明治末から大正にかけて最盛期を迎え、日本三大銅山の一つとなる。
ベンガラの方は宝永4年(1707)、下谷の橋本屋と森屋によって偶然に技法が発見され、享保2年(1717)には製造場も作られて製品の生産が始まった。このベンガラ生産を大きく前進させたのは中間製品である「ローハ」(緑礬・結晶硫酸鉄)の生産供給であった。宝暦元年(1751)ころ坂本の西江兵右衛門と谷本磯次郎が坂本で本山鉱山を発見し、ここから銅鉱のほかに硫化鉄鉱が多量に産出した。
二人はこれからローハを生産することに成功して、吹屋のベンガラ窯元へ送り、良質のベンガラが大量に作られた。ベンガラは焼物などの顔料として用いられるもので、ローハの製造は先述の二軒のほか、寛政2年(1790)頃から中野村の庄屋広兼家が加わり、三家が代々相続して昭和初期まで続け、巨大な富みを蓄積した。
一方ベンガラ窯元の五家も吹屋ベンガラの品質の優秀さでもって、全国唯一の特産地としての地位を昭和まで守り続けた。明治初め頃のベンガラ窯元の五家は片山浅次郎(胡屋)、長尾佐助(長尾屋)、仲口男松(叶屋)、長尾市三郎(東長尾屋)、田村弥太郎(福岡屋)であった。
ローハ製造の三家と同様、それぞれ巨万の富を蓄積し、鉄問屋、造り酒屋、米屋、醤油醸造業などを兼業し、近隣の田畑、山林の大地主となった。
吹屋の主要な町並みはこれらの豪商たちによって江戸後期から明治にかけて形成されていった。ベンガラは絵の具、染織、陶磁器、漆器のほかに防腐剤など多彩な用途で知られる顔料で、化学顔料が主流になるまでは吹屋のベンガラが大きく独占していた。
赤い石州瓦屋根、ベンガラ格子の町並みは下谷、下町、中町、千枚と続くが特に中町が見事である。郵便局も喫茶店も雑貨屋もすべてが赤茶色の町並みの中に溶け込んでいる。入り母屋造り、切り妻造り、中二階、妻入りまたは平入り、白壁、なまこ壁、ベンガラ格子、赤茶色の石州瓦などで、町並みが構成されているが、ベンガラの入った赤色の壁は、下谷の田村教之家だけだったように思う。
現在の主要な町並みの内、中町・下谷はベンガラの町。下町・千枚はベンガラと銅の両方によって形成された町である。
映画「八ッ墓村」の舞台になったのは、前述中野の広兼家で、城郭を思わす壮大な石垣の上に、長大な長屋門と出入り口を守る楼門の奥には入り母屋造りの母屋がそびえる。楼門に門番部屋は当然としても、不寝番部屋があり、不寝番がいたとは驚く。ローハ製造によって得た富がいかに巨大であったかを物語る。
町並みはベンガラの赤茶味であるが、屋根瓦の赤味はベンガラでなく石州瓦と言われる石見瓦(塩田瓦)である。寒さに強いように釉薬(塩を大量に)をかけた瓦である。また吹屋の建物の大工は石見大工の手になるものが多いと言われている。石州瓦も石見大工が導きいれたものであろう。
それにしてもこの見事な町並みが、よく残ってくれたと感謝する。伝統的建造物77棟の大部分は修復を終えているので、町並みも傷みのない家屋が続き、安心して心いくまで眺められた。
町並み指数 90
参考文献   
  岡山町並み紀行  山陽新聞社  富阪 晃  1999年
  備中 吹屋  山陽新聞社  山陽新聞出版局  1995年
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  歴史の町並み事典  東京堂出版  吉田桂二  1995年/
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年

中町の町並み

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下町の町並み

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