御来屋は旧名和町の行政・経済・文化の中心地であった。大山主峰の北西部、日本海海岸に沿って東西に長く広がる。 中世、後醍醐天皇が隠岐から脱出されて、この地の豪族名和長年の援助で京都に遍幸され、ただちに建武新政を開いたのは有名な話。 江戸時代を通じて鳥取藩領。御厨、御来屋、御来屋宿と記載は時代によって入れ替わっている。 御来屋は江戸時代には伯耆街道(山陰道)の宿駅にあたり、交通の要衝であって在郷町化し、淀江と共に汗入郡の交通・経済の中心地となっていた。 国替で池田光仲が岡山から鳥取に移ってきた寛永9年(1632)には、汗入郡の制札立場は相坂と淀江の2ヶ所のみで、当地はまだ家数や人口が少なく制札も立てられていなかった。 古くは伯耆街道(山陰道)は海岸から1km程南の長者原を通っていて、海岸部へ下がってくるのは江戸に入ってからで、それにより港も栄え人家も増加した。寛永14年(1637)の領内25ヶ所の宿駅のなかに当地の名がみえ、以来幕末まで宿場町・在郷町として栄えた。 延宝9年(1681)の汗入郡郷庄改帳によると、家数99・人数517とあるが、天保8年(1837)の大庄屋橋井富三郎袖控によると家数269・人数1,058。文久3年(1863)組合帳では家数311とある。 承応年間(1652〜55)までに藩の米蔵が建てられていて、御山奉行も在住していた。 明治に入ってからも汗入郡の中心地として機能し続けた。 今、古い町並みは旧山陰道に沿って展開している。平入り切り妻造りで板貼りの家屋が続く町並みである。中2階建ての家屋が少なく殆どは2階建て板貼りの家が連続している。 ここまでは石州瓦の影響が及ばないのか、赤褐色の瓦は見られないようで黒い瓦一辺倒の町並みだ。 中には千本格子や漆喰塗の大型商家家屋も見られ、かっての宿場町の名残は色濃く残っていて、旧伯耆街道(山陰道)は御来屋辺りで道幅が広くなっている。自動車が悠々と出違える幅は、多分明治19年の大火災後に道幅が拡張された結果と思われる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和57年 鳥取県の地名 平凡社 平凡社地方資料センター 1992年 鳥取県の歴史散歩 山川出版社 鳥取県歴史散歩研究会 1994年 |
御来屋の町並 |
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