中世、香登(かがと)という地名は備前焼の代名詞にもなっていて、多くの備前焼が焼かれていたのだろうが、何時の頃からか備前焼は伊部に移って行った。 香登村となったのは明治22年で、江戸時代には大内村・香登西村・香登本村と云われていた所が合併したものです。今回訪ねたのは江戸時代に香登西村・香登本村と呼ばれていた所で、共に宇喜多氏・小早川氏の支配を経て慶長8年(1603)から岡山藩領。 両村とも旧山陽道に沿った農業主体の農村であったが、香登本村では山陽道の間宿として賑わい茶屋と一里塚もあり、近郊物産の集散地でもあった。「備陽記」では香登西村の家数93・人数526。香登本村の家数238・人数1,312とあり、化政期の「和気郡手鑑」では寺社共で香登西村の家数136・人数541。香登本村の家数262・人数1,076とある。 豊臣秀吉の文禄の役で朝鮮から持ち帰ったもので、香登西村には膏薬の六介膏製造があり広く売り広められた。香登本村には唐臼製造がある。唐臼とは籾を摺る農具で、秀吉に販売権を保障され、唐臼製造が盛んであった。 明治17年の徴発物件表によると、香登西村の家数107・人数456。香登本村の家数214・人数953とあり、共に米・麦などの他に味噌・醤油・薪・油・木綿・灯油などの産物があった。 今、古い町並みは旧山陽道に沿った町並みであり、入母屋造りの重厚な商家建物が点在し、本瓦葺き・平入りでナマコ壁を備えた土蔵や主屋の町並みだった。旧山陽道に沿っているが宿場町や在郷町という印象よりも、農村集落に近い感じの町並みだった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989 岡山県の地名 平凡社 下中直也 1988年 |
香登本の町並み |
香登本の町並み |
香登本の町並み |
香登本の町並み |
香登本の町並み |
香登本の町並み |
香登西の町並み |
香登西の町並み |
香登西の町並み |
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