岡山県南東端に位置し、古墳時代からこの地で陶器が焼かれていた窯跡が多く残る。12世紀頃には伊部周辺の山麓に半地下式穴窯が築かれ、かめ・瓦・鉢などが製造されていた。そして時代とともに焼成温度の上昇により、鎌倉中期になると窯の位置は山麓から中腹に移り、鎌倉末期から南北朝時代前半にかけては更に窯の位置は高い所に移って行った。 南北朝時代後半になると、窯の位置が原料や燃料の運搬よりも、製品の搬出に都合がよい場所が選ばれるようになった。室町時代末期頃からは大窯が築かれ、伊部では南・北・西の三大窯に統合された。 製品は甕・壺・擂鉢が中心で有ることには変わりなかったが、生活雑器も生産されていた。 そして茶の湯が起こると、備前でも茶陶として見直され、豊臣秀吉は有名な北野の大茶会に備前焼を飾ったと云われている。 江戸時代には岡山藩の保護を受けたが、反面諸々の統制に縛られ、また江戸中期になると有田・瀬戸などの施釉薬陶磁器が盛んになったことにもあり、備前窯は中世末期ほど活気がなくなり不況となった。文化〜文政年間(1804〜30)の頃はその極に至った。そして天保年間(1830〜44)には不況の打開策として小型で経済的な連房式登窯(融通窯)が造られたが、肥前・瀬戸等の磁器の伸張には対抗できなく、生産量も減少して行った。 明治に入っても景気は回復せず不況が続いていたが、鉄道の普及などで土管と耐火煉瓦の製造がはじまり、活況を呈してきた。太平洋戦争時には軍儒重要物資の生産地として活動し、戦後は技術革新に努めた結果、耐火煉瓦の生産地として地位を高め、セラミックの開発へと繋がってきた。 備前焼は長い間不況が続いたが、昭和35〜36年頃よりめざましい発展を見せた。それは伝統手法による陶磁器製造で、人間国宝山本陶秀・金重陶陽・藤原啓らに続き、優秀な作家を輩出して、200基を超える窯数を持つようになったからだ。 伊部村の江戸時代は山陽道に沿った村で宇喜多氏・小早川氏の支配を経て、慶長8年(1603)から岡山藩領のまま明治を迎える。享保6年(1721)の家数250・人数1,518。文化年間(1804〜18)の「岡山藩領手鑑」によると家数269・人数891。 今、伊部の町並みは旧山陽道に沿って展開し、備前焼一色で家並みの殆どが備前焼の窯元や商店で占められている。有名な陶芸作家も多く、今の備前焼は芸術作品ばかりと云っても過言でない。 町並みを構成する家屋は多くが明治時代から昭和初期に建てられたもので、特別古い町並みとは言えないが、路地の奥にはレンガ造りの煙突もあり、どの家々も店先に陶磁器を並べている。量産品の陶磁器でなく、手造りの陶芸品ばかりだ。 以前訪ねたときには結構観光客もいて、お店が開いていてが、今回訪ねたのは正月2日の早朝だったので、そのお店の方も未だ寝床の中の様だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989 岡山県の地名 平凡社 下中直也 1988年 岡山県の歴史散歩 山川出版社 岡山県高等学校教育研究会 1991 |
伊部の町並み |
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