岡山市足守の町並み 
足守
地図


足守の町並み
  足守は陣屋町の面影を色濃く残す町並みだが、全く忘れ去られたように静かな町である。
足守藩は慶長6年(1601)豊臣秀吉の正室北政所(ねね)の兄にあたる播磨姫路城主木下家定が、領地を備中に移され、賀陽郡、上房郡内に二万五千石を領したことに始まる。慶長13年(1608)家定が没したときの、遺領相続問題で領地を没収され、浅野長晟が足守周辺を領したが、慶長18年(1613)浅野長晟は本家の跡継ぎで紀伊和歌山領主となり、足守藩領は幕府領となった。元和元年(1615)木下利房は大坂の陣の功により、旧領を与えられ陣屋を構えた。そして陣屋町の建設に着手したのは、寛永14年(1637)に四代藩主となった木下利当。没するまでの二十数年間を本陣と陣屋町の整備に費やし、その子五代利貞のころにはほぼ完成を見ることができた。木下氏は利房のあと11代・256年にわたりこの地に留まり、明治維新を向えた。
こうして現在の足守町並みの北西部に武家屋敷、南東部を通る街道沿いに商家群が生まれた。背後の山を守りの要とし、ぐるりを足守川の清流が城郭の外堀のような格好となって流れていた。
ただ、足守村は慶長〜寛文年間(1596〜1672)に上足守村・下足守村に分けられた。天保9年(1838の記録によれば上足守村の戸数は515軒・人数1748人。下足守村の戸数は149軒・人数598人であった。)
武家屋敷には旧足守藩侍屋敷や今なお残る貴重な陣屋の区画割。堂々とした商家が軒を連ねる商家群では旧足守商家藤田千年治邸が公開されている
武家屋敷の方から見ていくと、白壁の長屋門と土塀に囲まれた旧足守藩侍屋敷。家老杉原家旧邸宅で、江戸時代中期の建築と推定され、武家屋敷の形態をほぼ完全に近い状態で残している、県下唯一の貴重なもので県指定の文化財。主屋は伝統的な武家書院造りの構造で茅葺き屋根に本瓦葺の長大なもので、今日の和風住宅の原形とも言われている。
侍屋敷の前が足守小学校で、その横が陣屋跡だが、それらしきものは何も残っていなかったが、陣屋跡には木下利玄の生家と県指定名勝の近水園がある。
商家群の方の公開されている旧足守商家藤田千年治邸は、醤油醸造業、肥料商として昭和の初めまで繁栄を続けていた。明治時代の商家として典型的形態を今に残す貴重な建物。この建物は江戸時代末期に建てられたもので、主屋は入り母屋造り、中二階建て、平入り、本瓦葺、中二階は黒漆喰の虫籠窓とナマコ壁。明治時代の足守商家の姿を今に残す貴重な建物。
藤田千年治家の本家の藤田林蔵家が町並みの南端近くにあった。保存地区内に重厚な商家の建物を多く残す藤田一族の総本家である。
県道総社ー足守線に沿って、入り母屋造りまたは切り妻造り、中二階、平入り、漆喰塗り込めの虫籠窓、本瓦葺、千本格子、出格子、ナマコ壁の堂々とした重厚な商家が並ぶ。この保存地区約800mの道幅はかなり広くなっていて、江戸時代から物資交換市が開かれており、この地方の中心地として繁栄したことがうかがえる。
岡山市の調査によると、足守地区約250戸のうち、江戸時代の伝統的家屋の姿を留めるものは、約100戸と非常に高い割合を占めている。この貴重な文化遺産を後世に伝えようと、足守では地域の人々や行政が一体となって、町並み整備、保存運動が続けられていて、足守藩侍屋敷や足守商家藤田千年治邸の公開となって成果をあげていた。
町並み指数 60
参考文献   
  岡山町並み紀行  山陽新聞社  富阪 晃  1999年
  岡山県の歴史散歩  山川出版社  岡山県高等学校教育研究会  1991年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
  こころの原風景足守  岡山市観光物産課

旧足守藩侍屋敷

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