青谷町の町並み
青谷
(旧浜町・旧灘町・旧本町・旧中町・旧東町)
地図


青谷町青谷の町並
 日本海に面した青谷町はかって木綿と和紙の産地として知られ、和紙は今でも数多く生産されている。
この地に人が住み着いたのは大変古く、縄文後期の生活の場が青谷砂丘付近だったことが知られていて、青谷町には141基の古墳が見つかっている。
天正9年(1581)豊臣秀吉から気多郡1万3千石を与えられて鹿野城主となった亀井茲矩は領内の殖産興業に力を注いだことが知られている。
元和3年(1617)亀井氏の石見津和野移封後は池田光政の鳥取藩領、寛永9年(1632)池田光仲との国替を経て幕末まで鳥取藩領のままであった。
今の青谷町の中心部は江戸時代には、青屋村(勝部川下流西岸部)、潮津村(勝部川の右岸と同川の支流日置川の合流点付近)、蘆崎村(勝部川の河口東岸)に分かれていた。
伯耆街道が通るこの三村の集落は、一続きの町場を形成していて、青屋とも通称された。また潮津村は上青屋、蘆崎村は下青屋、青屋村は向青屋とも呼ばれた。
伯耆街道の青屋宿や制札場は潮津村地内に、鳥取藩の青屋御蔵や青屋御茶屋は蘆崎村地内に設けられていた。
家数は「因幡志」によると青屋村48・潮津村110・蘆崎村198、「文久3年組合帳」では青屋村40・潮津村191・蘆崎村240。
青屋村の一部と潮津村・蘆崎村は家続きで町場を形成し一村のようであった。「勝見名跡誌」では潮津村は商家が多く農民は少ないと記している。
伯耆街道は潮津村で伯耆中道として分岐して南下し、鹿野に通じる交通の要衝であり青屋宿が置かれていた。
この地域では江戸時代に和紙と木綿の生産が盛んであった。和紙は生産の中心は日置川上流の日置地区であった。その伝統を受け継ぐ和紙生産は今でも受け継がれ多くの和紙が生産されてる。木綿は青屋木綿として多く生産され、蘆崎村の松田屋吉右衛門が大坂商人と密接な取引を行っていた。
今古い町並は勝部川河口部の東側から、勝部川と日置川の合流点、そして日置川の東側の旧伯耆街道や伯耆中道沿いに展開している。国道9号線近くの湊神社から中町で左折し潮津神社を経て青谷町役場南側位までが古い町並である。
街道は枡形に屈曲した所もあり江戸時代の宿場町の面影が偲ばれ、鳥取藩の御蔵が置かれていたので、西廻り航路による大坂への米の積み出しが行われていたのだろうし、北前船も寄港していたのだろう。
枡形辺りが一番見所の古い町並で、赤い石州瓦の屋根に格子、漆喰壁の剥げ落ちた切り妻造り煙り出しを備えた伝統的な商家の建物もあった。
町並み指数  40  
参考文献
  鳥取県の歴史散歩  山川出版社  鳥取県歴史散歩研究会  1994年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年
  鳥取県の地名  平凡社  平凡社地方資料センター  1992年   


青谷の町並(旧浜町付近)

青谷の町並(旧本町付近)

青谷の町(旧中町付近)

青谷の町並(旧中町付近の造り酒屋)

青谷の町並(旧中町付近)

青谷の町並(旧東町付近)

青谷の町並(旧東町付近)

青谷の町並(旧東町付近)
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