赤碕町の町並 
赤碕
地図


赤碕の町並

 この地は中世以来伯耆街道沿いの宿場町として、また泊・橋津・由良と共に藩の港として発展した。
当地は天正13年(1585)羽衣石城(現東郷町)城主南条元続の支配下にあったが、慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、中村忠一領となり、慶長15年(1610)から八橋城(現東伯町)に入った市橋長勝領となる。元和3年(1617)には池田光政領となり、寛永9年(1632)池田光仲との国替えを経て以来、鳥取藩領として幕末を迎えた。
この赤碕村(赤碕宿とも言う)は江戸時代には伯耆街道沿いの宿場町として、又港町として栄え交通の要路であった。寛永年間(1624〜44)には制札場が設けられ、その後船番所も置かれた。承応年間(1652〜55)には藩蔵も置かれ、八橋郡の年貢米を収納した。
文久3年(1863)組合帳によると456軒を数えた。
このように赤碕は八橋郡の政治・経済の中心地であり、宿場町としては早くも寛永14年(1637)の宿駅規定があり、以後幕末まで続いた。幕末には勝手に宿屋を営む家が多数出てきたので、万延2年(1861)藩は宿屋を15軒のみに指定している。
また、赤碕村は港町としても繁栄し、正徳5年(1715)の記録では、米子・境・浦富・賀露・泊と共に鳥取藩領内六大港としている。赤碕港は御蔵や船番所に面し、享保・元文年間(1716〜41)頃に大規模な築港が行われ、寛政初年(1790)にも修築工事が行われている。
赤碕村は紅花・木綿の生産でも有名で、赤碕村の西紙屋佐兵衛が安永9年(1780)に三井大阪店の紅花買継宿に指定されている。その後西紙屋佐兵衛は木綿も売り込み、京都三井本店の木綿買継宿になった。寛政年間(1789〜1801)西紙屋佐兵衛の京都三井本店への報告によると、木綿は淀江辺りから倉吉・北条・橋津辺りまでの地域で12万反が生産されている。
旧伯耆街道沿いに開けた町だが、国道9号線がバイパスとなって山側を通ったために、町並は良く保存され、海岸に沿って・緩やかなカーブを造り、昔の宿場町・港町当時の面影をよく残している。町並は西から西町・西仲町・本町・仲之町・東町・塩屋町・三軒屋と続く。
切り妻造り平入り、2階建て瓦葺き板張りが一般的のようだが、日本海側の港町に多い妻入りの家が極く少ない。江戸期以来の宿場町だから格子や出格子を備えて重厚な商家の建物も多くあり、ナマコ壁・煙り出し・袖壁も多く見られたが、漆喰塗り込めの虫籠窓にはお目にかからなかった。この街道の直ぐ裏を日本海の荒波が襲う地帯だから、漆喰を使った壁があることすら不思議な気がした。                            
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参考文献
  鳥取県の歴史散歩  山川出版社  鳥取県歴史散歩研究会  1994年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和57年
  鳥取県の地名  平凡社  平凡社地方資料センター  1992年   


赤碕の町並

赤碕の町並

町中にはこのような土蔵もあった。

赤碕の町並

赤碕の町並

赤碕の町並
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