四日市市東富田町の町並
東富田町
地図

 
東富田町の町並

 四日市市東富田町は三重県の北部、四日市中心部より東北約6kmの海岸沿いに位置する平坦地である。江戸期は桑名藩領。
東富田村の枝郷は富田一色村・松原村・天ヶ須賀村があるが、郷帳類ではいずれも別々に村高が付されていて、実際は分村していたようだ。
村高は「慶安元年郷帳」「元禄郷帳」ともに397石余、「天保郷帳」「旧高旧領」では431石余。
文政12年(1829)の家数386・人数1,943。 
慶長6年(1601)東海道が設定され、東富田村は桑名宿と四日市宿の中間に位置し、間の宿として機能し場とし、街道筋には旅籠が軒を並べ、店頭では名物の焼きハマグリを売った。
安永9年(1780)の大火後、焼失した町方の大半を浜方に移して再興を目指した。浜方は当時浜州や葦田で、家は僅か3軒であったが、町方の再建により、漁師町の基が築かれた。
寛政8年(1796)の朝明郡絵図控によると、東海道に面した本村の家数は125・海浜の家数158。文政10年(1827)の桑名領郷村案内帳による家数386・人数1,943とある。
安永の大火後、海岸地帯に移住した村民は漁業を営み、江戸後期から漁村として栄える。明治初期は水揚げされた魚類や干魚を中心に行商に歩いたが、明治の中頃からは、鰹節の製造が始まり、明治末期には鰹節の販売は最盛期となり大正中期まで続く。鰹節専門の行商人だけで300人を越え、当時富山の売薬と並んで富田行商人の名が知れ渡ったが、大正6年に東洋紡績富田工場の操業により行商人が工場勤務に転業してしまった。また、昭和初期から小売業の発達で、生産地から消費地に直送されるようになり行商は不振となってしまった。
大正初期から煮干し・素乾イワシなどの生産が盛んになり、第2次大戦後は漁法の発展によって漁獲高は飛躍的に伸びたが、四日市コンビナートの発展によって、漁獲高は急減し漁業を営む人が無くなってしまい、今は水産加工業者と鰹節問屋が僅かに残るだけになってしまった。
今、町並を歩くと、規則正しく碁盤目状に町割りされた区域に、漁師町の町並が残っている。殆どは平入家屋である。中2階建てだったり2階建てだったりする。
昭和34年の伊勢湾台風以前は遠浅の浜辺に天日乾燥の魚が並び、碁盤目状の道路沿いに漁業関係者の住居が軒を連ねる典型的な漁業の町であったと、町で逢った方に聞いた。でも最近まで漁業の町だったので名残は色濃く残っている。
町並み指数 50
参考文献
  角川日本地名大辞典   角川書店   角川日本地名大辞典編纂委員会   昭和58年
  三重県の地名   平凡社   下中邦彦    1983年   


東富田町の町並

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