津島市は名古屋市の西側に位置し、かっては濃尾三川(木曽川、長良川、揖斐川)の河口部で、津島湊の船運で栄え、津島神社の門前町として、また海上交通の港町として大きく成長し、この地方の中心であった。門前町としては、津島神社の摂社・末社はおよそ3000社といわれ、東海・北陸・関東・東北の各地にまで数多く見られる。 濃尾三川の河口部の陸地化が進むにつれて津島湊の役割が後退し、やがて江戸時代になって、寛文6年(1666)、東海道宮(熱田)の宿から桑名(三重県)までの「七里の渡し」(海上7里)を補助する脇街道として佐屋街道が開かれた。熱田神宮から舟に乗らずに、陸路で埋田の追分(津島市埋田町)から佐屋へ出て、「三里の渡し」を経て、桑名へ出た。佐屋街道は陸路六里、水路3里の計九里であり、七里の渡しより距離にして二里も長いが安全であり、舟の嫌いな旅人や婦人、子供に多く利用された。徳川三代将軍家光が寛永11年(1634)に佐屋街道を利用して以来、佐屋街道は重要視されるようになった。 江戸時代には伊勢神宮と津島神社をあわせて参拝しないと「片参り」として御利益がないといわれていた程だ。 織田信長、豊臣秀吉の保護をうけ、社殿の造営などを行い、徳川幕府になってからも、尾張藩初代藩主徳川義直は、社領1293石を寄進するなど手厚く崇敬した。 津島村は江戸時代には尾張藩領ではじめ津島代官所支配であったが、その後佐屋代官所支配になった。寛文末年(1673)の「寛文覚書」では津島本田方として米座・堤下・筏場・下構・今市場の5ヶ村をあげ、その戸数1082軒・人数5539人と記している。なおこの5ヶ村が津島村の発展に寄与した村々である。 町が天王川左岸の自然堤防上に造られているため、道は自然に湾曲しており、変化に富んだ町並みの景観を造っている。 古い伝統的な家屋の町並みは自然堤防上の旧上街道・旧下街道に沿って形成されている。現在の米の座町・本町2丁目〜5丁目・今市場町・筏場町辺りで、町家は切り妻造り、漆喰の真壁、中二階、一階にも二階にも格子、出格子、平入り、桟瓦葺の家屋が連なる。 津島神社の東に堀田家がある。主屋、東蔵、西蔵、小蔵はいずれも国指定の重要文化財。主屋は切り妻造り、中二階、卯建が上がっていて、一階も二階も格子、出格子、平入り、黒漆喰の真壁で妻側は板張りであった。主屋は正徳元年(1711)に建てられたもので、近世中期以降の豪商の家屋の造りをよく残している。津島神社の神官を経て、酒造業、新田開発、金融業などを経営、津島神社への援助や尾張藩への御用達をした。 下街道と上街道との橋詰三叉路のある片町には、大きな石の道標が立っていた。「左津島神社参宮道」と刻まれていて、津島神社参詣の道筋として、江戸時代この辺りが一番賑わっていたところだ。また、その後も津島の中心地であったようだ。 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 愛知県の歴史散歩上 山川出版社 愛知県高等学校郷土史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 |
旧下街道の本町の町並み |
筏場町の造り酒屋 |
本町の裏通りの町並み |
筏場町の町並み |
本町の町並み |
本町の町並み |