一身田の地はモロヒトと称する36戸の神宮奉仕・御供米供進の里で,“一身田”という地名の由来は、奈良・平安時代の制度で、政治上功績のあった貴族に特別にその身一代に限って与えられた田、「一身田」からきたといわれ、その貴族とは「斎王(さいおう)」ではなかったかと考えられている。 親鸞を開祖とする浄土真宗は浄土教の一派で、浄土真宗十派の一つ高田派は、ここ津市一身田町の地に本山専修寺を置いている。 関東(栃木県二宮町下野国高田)に本拠を置いていた真宗高田派は十世真慧(しんね)によって一段と発展を見た。真慧上人は伊勢国に布教を進め、一身田の地に側近の門徒たちと共に住み、無量寿寺を建立したのは、寛正6年(1465)のことである。 下野国高田の専修寺は「本寺」としての地位を持っていたが、文禄年間(1592〜96)ごろからは伊勢国一身田「高田専修寺」が公称となり「本山」としての権威が確立して行った。 一身田寺内町の成立を明らかにする資料は残っていないが、天正8年(1580)の伽藍炎上による復旧工事がきっかけとかんがえられ、一御田神社棟札のうち、天正20年(1592)の屋根葺き替え棟札に寺内町が既に成立していたことを窺わせるものがある。 東西500m、南北450mの環濠で囲まれた範囲で、環濠の幅は現在ではかなり狭くなっているが、堀の長さや位置は江戸期のままである。また、濠の内側には2〜5mの堤があったようである。 ここに町家約100軒があり、堀にかかる橋が3ヶ所、楼門・赤門・黒門が設けられていた。寺の境内には末寺・坊官があり、北側には用人が住んでいた。東の橋の外側には約50軒の集落があり、水茶屋も多く、参詣客相手の遊女も置かれた。文化年間(1804〜18)に水茶屋が25軒あり、明治5年には娼妓189人もいた。 寺内町の政治は専修寺門跡の家司によって行われ、その他の町家は3人の庄屋によって支配されていた。 正保2年(1645)専修寺が大火災にあい、堂宇をすべて焼失したが、万治元年(1658)津藩主より寺領の寄進をうけ寺域が拡張された。寛文6年(1666)御影堂・寛延元年(1748)如来堂・元禄14年(1701)山門・寛政8年(1796)講堂(勤学堂)がそれぞれ落成している。 訪ねた平成13年7月、専修寺では御影堂の修復工事中であって、御影堂全体をシートが覆っていた。古い町並みの残る専修寺前の通りはさすがに本山前らしく、法衣・仏具店などが軒を並べている。町並みを歩くと、城下町の様に専修寺を中心にして、道路がT字型になっている。専修寺前の道以外は一直線の道路はないようだ。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の歴史散歩 山川出版社 三重県高等学校社会科研究会 1990年 一身田寺内町 津市教育委員会 一身田寺内町を考える会 平成9年 |