津市美杉町上多気は三重県中央部西端近く、雲出川支流八手俣川上流域に位置し、比較的開けた所だ。 江戸時代は伊勢本街道沿いの宿場町であったが、この地が脚光を浴びていたのは中世で、南北朝時代から戦国時代にかけて、この地を本拠地とした北畠氏の活躍によるものだ。 この地で勢力を伸ばし戦国大名化した北畠氏の拠点霧山城は、上多気村と下多気村の村界一帯で、この地に北畠氏の居館を中心とした霧山城(多気城)の中心部があったと伝えられている。 天正4年(1576)に織田信雄の攻撃を受け、当時本拠地としていた三瀬館や霧山城も落城し、城下町多気は完全に滅び去った。 この多気が山間部でありながら畿内方面との交通路が通じ、交通の要衝となっていたのは、北畠氏が多気を本拠として勢力を伸ばしていたことによるもので、北畠氏の滅亡後は静かな山村として文化的な遺産も栄光も埋もれてしまい、伊勢への参宮路の宿場町として発展し、旅籠屋も多数あったようだ。 霧山城落城後は、多気は織田信雄の支配下に入り、天正12年(1584)以降松阪藩蒲生氏郷領、近世は慶長13年(1608)以降津藩領、元和5年(1619)以降は紀州藩松阪領となる。 伊勢本街道に沿った上多気集落は八手俣川によって分断され、西側(大和側)は谷町、東側(伊勢側)は町屋と呼ばれて宿場町として栄えてきた。江戸時代から明治中期にかけて、伊勢参宮道者が多く往来するようになり大変賑わっていた。20軒もの旅籠屋があり、「角屋・万屋・結城屋・中屋・………などの屋号を持ち、それらの屋号が今も家の表札代わりに掛けられている。 八手俣川の西側は谷町と云われ大型の商家建物が点在している。東側の町屋の町並みには参宮道者で賑わっていた宿場町当時の面影が色濃く残っている。中2階建て平入り、板貼りの商家建物が連なる。この町屋の建物から出てきた人と話すと、八手俣川より西側は山林や地主等の金持ち層で東側が宿場町だったとのこと。そう云われてみると確かに家屋の形態がハッキリと分れていたように思えた。 三重県の歴史散歩 山川出版社 三重県高等学校社会科研究会 1994年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
美杉町上多気の谷町の町並 |
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美杉町上多気の谷町の町並 |
美杉町上多気の谷町の町並 |
美杉町上多気の谷町の町並 |
美杉町上多気の谷町の町並 |
美杉町上多気の町屋の町並 |
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美杉町上多気の町屋の町並 |
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美杉町上多気の町屋の町並 |
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