上野は城下町からスタートしたが、廃城後は伊勢参宮街道の宿場町として栄えた所である。 上野城は奄下(あんげ)・安濃両郡一円を勢力圏としていた国人領主長野氏が拠点として構築し、これを分部氏に預けたものと見られる。永禄11年(1568)織田信長が伊勢侵攻し長野氏との和議を整え、弟信包を長野氏の養子として送り込み、長野信包氏は上野城に据えられたので、分部氏は信包に仕えることとなった。 天正12年(1584)豊臣秀吉は分部光嘉を一万石で持ってここに配し、関ヶ原の戦いでは分部光嘉は徳川方に属したので一万石が加増され二万石となり、ここを居城として上野藩が成立した。そして上野は城下となった。 分部光嘉死去のあとは光信が継ぐが、元和5年(1619)近江大溝(現高島市)へ移封となり上野城は廃城となった。 しかし城下は伊勢参宮街道の宿場として、旅籠27軒のほか、本陣、脇本陣、問屋、和歌山藩の御用飛脚(御七里役所)が設置され、当地方一の繁華街として栄えた。文化3年(1806)の大指出帳によると家数323・人数1,266であった。宿内の街道は防衛のため3ヶ所で屈折していて、北から北町・片町・鍛治町・禰宜町・新田町・中町・須崎町・南町からなっていた。 今、旧伊勢参宮街道沿いに宿場町当時の面影を色濃く残す古い集落が街道両側に帯状に残っている。 平入り妻入りが混じった町並であるが、比較的平入りの家屋が多く、間口が広く格子を残した家、中には霧よけのオダレを備えた家、虫籠窓を残した家も多く、中々見ごたえのある町並が旧街道沿いに残っていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
河芸町上野の町並 |
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