津市伊勢街道沿い阿漕町の町並み
阿漕町津興・八幡町津・下弁財町
地図


八幡町津の町並
 阿漕浦(阿濃津)は中世には、日本三津の一つと言われるほど、湊として繁栄していたが、明応7年(1498)の大地震で大きな被害を受け、湊も浅くなってしまい、復興しないまま昔日の面影が無くなった様だ。地震前の町に4,000〜5,000軒もの家があったと伝える。
慶長13年(1608)藤堂高虎は伊賀上野城に入り、翌年から小さかった津城の城郭の改造に着手した。武家屋敷町を造り、これまで海寄りを通っていた伊勢参宮街道を城下町に引き入れ城下の中央を貫通させた。町人町も整備して宿場問屋や本陣・脇本陣も設けた。伊勢商人も多く誕生して江戸に進出し、江戸後期には彼らが津藩財政を支える有力者となった。
阿漕は江戸時代には安濃郡津興村で、津城下町に接し次第に町場化したため、行政上は津城下の一町として扱われた。
江戸前期の津城下は津領新町(弁財町)の南端、閻魔堂(真教寺)辺りを町はずれとし、少し南に孤立して八幡町があったが、その間の伊勢参宮街道沿いにも次第に人家が建ち並ぶようになって、阿漕町が成立した。当町の町立ては貞享2年(1686)のことという。
八幡町は阿漕町の南に続く伊勢参宮街道沿いの町で、阿漕町同様城下町と同様に取り扱われた。天和3年(1683)頃には八幡町にも茶店が軒を並べていた。寛永9年(1632)に八幡宮建立の際、町並を造るように命令されて、83軒ができたが田畑がなく生活が苦しいので、この地に煙草製造と販売特権が与えられた。
元禄14年(1701)には阿漕村は331人、八幡村は1,121人。そして阿漕村では明治5年家数78、八幡村では明治4年に234戸・人数1,092とある。
今古い町並は下弁財町の閻魔堂(真教寺)から南へ旧伊勢参宮街道沿い、阿漕町津興から八幡町津へと続く。霧除けのオダレを軒下に備えた町並が続くのは、この地の古い伝統的様式家屋の最大の特徴のようだ。切り妻造り平入りで、中2階建てや2階建て、格子や袖壁、虫籠窓を残した家が連なる。特別大きな商家の建物は少ないが、街道筋の特徴が如実に表現された町並が見られる。
この頃は何処の町並でも古い伝統的様式の家屋は点在する程度であるが、ここでは連続して続き、見ていても圧巻であるが、地元の方はあまり古い町並とは気づいて居られないようだ。
町並み指数 50  
参考文献
  三重県の歴史散歩  山川出版社  三重県高等学校社会科研究会  1994年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58年
  三重県の地名  平凡社  下中邦彦   1983年   

阿漕町津興の町並

阿漕町津興の町並

阿漕町津興の町並

阿漕町津興の町並

阿漕町津興の町並

阿漕町津興の町並

阿漕町津興の町並

阿漕町津興の町並

八幡町津の町並

八幡町津の町並
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