豊川市赤坂町は愛知県東部、豊川市域の西部、音羽川中流域に位置する。 江戸期の赤坂村は幕府領で、村高は「寛永高附」898石余、「元禄郷帳」894石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに898石余。幕府の代官陣屋が置かれ、三河の幕府領を支配していた。 明和7年(1770)村差出帳には高733石余、家数378・人数1,413、本陣3、脇本陣1、旅籠60余とある。 慶長6年(1601)赤坂村に、人馬継立の業務が命じられたが、その時の朱印状には「赤坂」「五位(御油)」と併記され、二宿で一宿の業務を分担したと思われる。 延宝8年(1680)の差出によると、町並の長さ8町30間、家数329・人数1,724、本陣3・脇本陣1、旅籠62とある。 宝永4年(1707)一年間の宿泊者数は13,076人。 旅籠の多くは飯盛女を抱え、「御油や赤坂・吉田がなけりゃ、なんのよしみで江戸通い」とうたわれたように、赤坂宿は御油や吉田とともに歓楽地であった。 天保14年(1843)の宿村大概帳によると、町並みの長さ8町30間(約1km)家数349軒・本陣3軒・脇本陣1軒、人口1,304人の規模であった。宿場の中程に江戸時代からの旅篭 大橋屋(旧屋号伊右エ門鯉屋)がある。 建物は正徳5〜6年(1715〜16)ころのものといわれていて、東海道赤坂宿全盛期における女郎置屋の形態を残しているものである。玄関を入ると黒光りする天井、柱、板の間、階段等落ち着いた歴史の重みを感じさせる。なお大橋屋は現在も旅館業を続けている。 大橋屋の少し御油よりに、東海道53次赤坂宿と看板を揚げた、民芸品の尾崎屋や他に伝統的な建物では、花井家、藤田家、近藤家などあるが、どの家も切り妻造り、2階建て、平入りで格子が全面又は多くの部分に使われているのが特徴だった。 御油−赤坂間は東海道でも最も短い距離で約16町、歩いて30分たらずである 御油宿の町並みが途切れたところから、当時を偲ぶ松並木がはじまり、松並木が終わったところから赤坂宿がはじまる。 この松並木は国の天然記念物に指定され、街道の両側に見事な松並木が600mほど続く。江戸時代から松並木保存の努力がなされていたが、昭和47年「天然記念物御油松並木愛護会」が結成され、献身的努力で保存がはかられている。 明治21年東海道線の敷設を拒んだことにより、江戸期の繁栄は急速に衰退してしまった。 愛知県の歴史散歩下 山川出版社 愛知県高等学校郷土史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 愛知県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
御油宿と赤坂宿の間の松林 |
赤坂町の民芸品店尾崎屋 |
赤坂町の旅籠大橋屋 |
赤坂町の町並 |
赤坂町の町並 |
赤坂町の町並 |