豊橋市二川は東海道53次の二川宿が置かれていたところ。 江戸初期に駅制が定まる以前の東海道は、御油から辺りから三ヶ日に至るルートや飽海川(今の豊川)を渡しで通過し、高師を経て二川から駿河の国に入るなど多くのルートがあったが、慶長6年(1601)徳川幕府による五街道の宿駅制度の制定により、ここ二川も宿駅に指定され,街道が決められた。 東海道の二川宿は二川村と大岩村の二ヶ村で一宿分の人馬継立てを負担することになっていたが、正保元年(1644)に宿は二川村を西に12町離れた大岩村内(現二川町)へ移転して、改めて二川宿となり、大岩村が加宿とされた。 二川村は江戸はじめは幕府領であったが、寛永9年(1632)吉田藩領、寛永20年(1643)幕府領、天和元年(1681)志摩鳥羽藩領、享保10年(1725)からは幕府領で明治を迎えた。 宝暦3年(1752)の家数193・人数795であった。文政3年(1820)宿役を二川村・大岩村で2分の一づつを負担するようになった。両村の家数306軒で、内、宿場の家数194軒・人数799人であった。 天保14年(1843)の東海道宿村大概帳には町並の長さ12町26間、大岩も合わせた家数308軒・人数1,468人。本陣1・脇本陣1・旅籠屋38(大7・中10・小21)、問屋場は二川村と大岩村の二ヶ所にあり、問屋4・年寄5が交代で勤務した。 本陣ははじめ後藤五左衛門で問屋も兼ねていたが、後に紅林武右衛門、そして馬場彦十郎と代った。本陣馬場家は今、二川宿本陣資料館として、本陣の遺構が修復復元され公開されている。東海道筋で本陣の遺構が残っているのは、滋賀県草津宿の田中家本陣とここの二川宿馬場本陣だけで、市史跡に指定されている。 国道一号線(東海道)はパイパスとして町並の外を通ったので町並はそのまま保存された。 今、街道筋を歩くと、宿場町当時の面影が色濃く残り、切り妻造り平入り、中2階建てで格子の備わった家屋が並び、電柱と自動車が無ければ江戸〜明治の町並そのままである。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 愛知県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 歴史の町ふたがわ 豊橋市教育委員会 歴史の町ふたがわ編集委員会 平成3年 |
二川町中町の二川宿本陣 |
二川町新橋町の町並 |
二川町新橋町の町並 |
二川町東町の町並 |
二川町東町の町並 |
二川町東町の町並 |
大岩町東郷内の町並 |
二川町東町の町並 |