愛知県の知多半島の中央部に位置する常滑市は、日本六古窯の一つで古くから焼物の町として知られている。平安時代の末期に始まり、室町、桃山、さらに江戸、明治と常滑焼は900年以上の長い年月を経て現代に受け継がれている。 室町時代この地を支配していたのは貞和元年(1345)大野城を築いた守護一色範光である。知多半島を支配していたが、戦国時代に入ると一族の内紛によって急速に衰退した。かわって一色氏の家臣佐治氏が台頭しこの地を支配した。16世紀初め佐治宗貞のとき新たに大野城を築き、以後四代佐治氏の居城となった。佐治氏は大野衆と呼ばれた水軍を率いて、伊勢湾海上権を握り勢力をはっていた。特に16世紀後半になると信長・秀吉のもとで水軍として重視された。 天正15年(1587)秀吉は第4代大野城主与九郎を改易し、大野城は廃城となった。常滑村は江戸期を通じて尾張藩領で、横須賀代官所支配。全村蔵入地だあった。寛文末年(1673)の「寛文覚書」によれば、家数317軒・人数1401人。文政5年(1822)の「徇行記」によると家数533軒・人数2120人であった。 さて、常滑焼は中世六古窯(知多・瀬戸・信楽・越前・丹波・備前)の一つである知多古窯に源が求められ、900年の伝統をもっている。知多古窯も室町期になると、窯が常滑周辺に集まり、無釉焼き締めの甕・壷などの大型品中心の生産になり現代に至る基礎が成立した。 しかし、天正2年(1574)の禁窯令によって大きな打撃をうけ、江戸時代中頃まで細々と甕や壷を焼く程度であったが、江戸時代後半になると生産技術も登り窯やロクロの導入によって革新がなされ、再び活況を取り戻した。製品もロクロを使った茶器・酒器などの工芸的なものが登場した。 明治になると、レンガ・タイル・土管などの建築土木製品が新たに焼かれるようになった。そして広範囲な焼き物を生産する現代の常滑の陶磁器産業が形成された。 「常滑焼の里」探訪者のために、やきもの散歩道Aコース・Bコースが設定されている。陶磁器会館の周辺から南の丘陵地は、常滑の町の雰囲気を伝える家並みがよく残っている。黒板の横貼りの建物は、一般の町並みの主屋・土蔵などと違って、多くが作業場の建物であって、工場群の中の坂の小路を歩いているようだ。A・Bコースとも丘陵地の窯場の間を通っているため、道幅が狭く曲がりくねった坂道が多いのが特徴である。 途中には土留めに土管や焼酎瓶・酢甕が用いられた「土管坂」と名づけられたところや、焼き物を敷き詰めた坂道、レンガ造りの煙突や窯、土管や瓶を積み上げた擁壁などがあり、「焼物の里」を十分に実感させてくれる。なかでも「陶栄窯」(国の民族文化財)と名づけられた登窯は散歩道の探索の圧巻である。 この登窯は昭和48年まで実際に使われたもの。この登窯の導入によって、堅く焼き締まった「真焼物」生産に革新をもたらし、以後常滑焼は大きく発展した。明治20年に築かれたものであるが、昭和49年1月の窯出しを最後に約90年にわたる窯の火を消した。 愛知県の歴史散歩上 山川出版社 愛知県高等学校郷土史研究会 1995年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 東海・北陸小さな町・小さな旅 山と渓谷社 山と渓谷社大阪支局 1998年 |
土管坂 |