中世文明年間(1469〜87)以降、大野は佐治氏が、常滑は水野氏が勢力を張っていた。 佐治氏は一色氏の被官で、大野衆と呼ばれる水軍を率いて伊勢湾全域の海上交通の掌握していた。 水野氏は緒川(東浦町)を本拠とする土豪で、常滑に進出して城を築き、松平氏(徳川)と手を組んだり、織田方になったり、本能寺の変で明智方についたりと戦国武将の道を歩んだ。 江戸時代は大野村も西之口村も尾張藩領で終始している。寛文末年(1670頃)の「寛文覚書」によると大野村の家数755・人数3,402。戸数は宝暦13年(1763)551軒、天明元年(1781)561軒となっている。西之口村も寛文末年(1670頃)の「寛文覚書」では、家数190・人数840であった。西之口村では慶長13年(1608)に浜年貢として塩を納めているので、当時は製塩業も盛んだったようだが、寛永年間(1624〜1643)に地震でやられるまでは、浜年貢が続いていたようだ。 大野村は酒造・鍛冶・木綿仲買・廻船業のどの生業をもとに家々が密集する町場であった。 中世以降、大野荘の湊として知られた大野村は江戸期には商工業の町として発展し、江戸中期には三河から伊勢への道筋にあり、海運・軍事両面で重要な位置を占めたことにより人口も大きく増加し、3,402人を数えた。(参考までに常滑は1,401人) 西之口村も大野村に続く町で、大野村より数は少ないが木綿買継問屋や鍛冶職人がいた。 江戸初期に大野地方で綿作が始まり、江戸中期には在郷の綿商人が台頭し、味噌溜製造業・酒造業でも有力酒造家が現れている。中世に始まる大野鍛冶も元禄〜享保年間(1688〜1736)には185人を数えた。大野鍛冶の特徴は出鍛冶で、三河方面に出てその土地で仕事をしていた。 寛文11年(1671)大野村の廻船は郡内144艘のうち66艘を数え、大型のものは江戸廻船として米や酒を運び、一部の船は大坂などへ常滑焼を送ったり、塩・薪炭などを運んだ。小型の廻船は伊勢湾内を駆け巡って商品流通に大きく貢献していた。 今町並みと言えるほどの連続した商家の建物は、西之口一丁目に少し残る程度であるが、大野町6丁目から9丁目にかけては、一部の豪商の家屋も混じって、古い町並みを構成する民家が点在している。 切り妻造り平入り、中2階建て又は2階建てで、桟瓦葺の家屋であるが、伊勢湾に沿った海岸地帯であるためか、白漆喰塗り込め、虫籠窓の家は目に付かず、外壁の板壁が建物全体を覆っている家が多かった。建物の形は異なるが、伊勢湾を隔てた伊勢地方と板張りという点では共通していた。 愛知県の歴史散歩上 山川出版社 愛知県高等学校郷土史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 愛知県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
西之口一丁目の町並み |
大野町八丁目の町並み |
大野町九丁目の町並み |
大野町九丁目の町並み |
大野町六丁目の町並み |
大野町一丁目の町並み |