田丸は城下町であったが、伊勢本街道と熊野街道の分岐点であるため、伊勢参宮や熊野詣での通行人が多く、江戸時代中期以降は城下町というより宿場町としての性格が濃くなっていた。 慶長5年(1600)伊勢岩手城主稲葉道通が関ヶ原の戦いの軍功によって、4万5千石余を領して田丸城に移り、田丸藩の城下町となった。その後一時廃藩となったが、元和3年(1617)に津藩領となり、同藩の代官支配となった。そして元和5年(1619)紀州藩に徳川頼宣が封ぜられ、田丸領は紀州藩田丸領6万石となり、紀州藩家老久野宗成が支配し以後明治まで続いた。 城下町は東西700m×南北800mの規模で、伊勢本街道と熊野街道に沿った町家を佐田村から独立させたものであった。 明治2年の資料によると、町数7、屋敷数279・町家数230、町総人数男女8歳以上842人であり、旅籠屋は天保頃(1830〜44)には大手町5軒・魚町1軒・板屋町2軒・菅町5軒の13軒が見えるが、他町にも数軒の旅籠があったことが知られる。 「南勢雑記」には「町屋敷八九百軒多くは紙煙草を売ふ、旅籠三十軒斗あり」とあって武士は少なかったようだ。 旧街道沿いには古い伝統的様式の民家が軒を並べ、宿場町時代の面影を少し残している。戦国から江戸時代を通じて城下町であったので、その面影をと思い探したが、宿場町としての面影が残るも、城下町としては道の屈曲に見られる程度で殆ど残っていなかった。 三重県の歴史散歩 山川出版社 三重県高等学校社会科研究会 1994年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
田丸の町並 |
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