多気町相可は古来から伊勢本街道の宿場として栄えた。室町末期、大和初瀬から山田(現伊勢市)に至った連歌師宗碩の紀行文でも、天正4年(1576)伊予宇和島城主西園寺宣久の「伊勢参宮海陸之記」にも相可が登場し、相可が伊勢本街道の宿場として、古くから多くの旅籠を有していたことが判る。 相可村は江戸時代、紀州藩田丸領と伊勢外宮上部大夫領・同春木大夫領の相給地で、四疋田組に所属していた。 相可は伊勢本街道・熊野街道・櫛田川水運とが交錯した、水陸交通の要地であった。櫛田川を介して相可は射和と対向する渡津集落で、熊野街道・伊勢本街道の宿場町として旅籠屋・茶屋・女郎屋が発達していた。 相可には豪商の大和屋や大国屋などがいた。 現在、相可の町並の中央部に「伊勢本街道 すくならはせ道 右くまのミち 文久三葵亥十一月建」と刻まれた道標が立っている。板張りで2階建て、妻入りの民家が連なる町並は、伊勢路独特の光景だろう。 同じ妻入りでも、切り妻に軒を出したもの、入り母屋の妻入りのものなどバラエティに富んだ町並で、本瓦葺きと桟瓦葺きが入り混じっていた。 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 |
相可一区の町並 |
相可一区の町並 |
相可一区の町並 |
相可一区の町並 |
相可一区の町並 |
相可二区の町並 |
相可二区の町並 |