白子は伊勢街道(参宮街道)の宿場町と近世伊勢湾海運の中心地として栄えていた。 白子は伊勢街道に沿った宿場町であったが、御三家の和歌山藩の権威を背景として、伊勢木綿や米などの江戸への積出港として賑わい、地場産業の白子型紙も隆盛を極めた。また、紀州候別邸・白子代官所・物頭役所・目付役所が置かれ、紀州藩白子領の拠点であった。 江戸のはじめは津藩領であったが、元和5年(1619)からは紀州藩領。寛政9年(1797)刊の「伊勢参宮名所絵図会」には「人家一千軒余、繁昌の湊也。江戸船積をする問屋多し。これを白子積といふ。素麺並紺屋形紙名産なり」とある。 伊勢参宮道の宿場町としては、北の江島村と共に10軒程の旅籠があり、湊は伊勢商人の流通拠点となっていた。伊勢商人は江戸で大伝馬町組と白子組を組織し、伊勢・尾張・三河3国の木綿輸送を確保するために、当地の廻船問屋・積荷問屋を支配下に入れていた。 町にはこれらの問屋が軒を並べ、千石船も往来して、湊は活気にあふれていた。少しの藩米を積んでおれば、鑑札と紀州藩御用の旗指物・提灯を持った船は浦賀の海関を容易に通過できる特権が与えられていた。 天明年間から文化年間(1781〜1818)にかけて、千石船は大伝馬町組22艘・白子組25艘を持ち、大和方面からの綿もこの湊を通じて関東に送られ、九十九里浜からは干鰯が陸揚げされて伊勢・近江大和の綿作地帯に送られた。湊には廻船問屋のほか干鰯問屋仲間も軒を並べた。 手工業としての染型紙は寺家・白子を中心に発達し、和歌山藩の保護のもとに型売仲間を結成して全国に独占的な販路を開拓した。染型紙業者と彫職人の連携により伊勢型紙の名声は高くなっていった。 明治2年の記録では白子・寺家村合わせて家数617・人数2,845。明治5年の記録では家数白子村458・寺家村253とある。 訪ねたのは江島本町から白子二丁目までの伊勢参宮街道沿いの町並で、平入り・切り妻造りの中2階建てで虫籠窓・連子格子を備えた伝統的な家屋が連なる。古い町並の中心は今の白子1丁目〜白子2丁目辺りで、白子1丁目には「さんぐう道」「神戸四日市道」と刻まれた道標が立っていた。 かっての廻船問屋や干鰯問屋だったと思われるの建物も残り、伝統的な古い町並を形成していた。また、今でも伊勢型紙と言われる染型紙の商いはもっと活発と思って訪ねたが、着物が衰退した今では染型紙業界も衰退し、保存活動をしなければならないほどの状態だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 三重県の歴史散歩 山川出版社 三重県高等学校社会科研究会 1994年 |
江島本町の町並 |
江島本町の町並 |
江島本町の町並 |
白子本町の町並 |
白子本町の町並 |
白子1丁目の町並 |
白子1丁目の町並 |
白子2丁目の町並 |
白子2丁目の町並 |
白子1丁目の町並 |