鈴鹿市神戸は城下町・宿場町として栄えたところだ。 南北朝時代からこの地を支配していた関氏一族の神戸氏は、天文末年(1555)ころ現在の神戸城に移転し、城下町繁栄のため、神戸の東の水田地帯を通っていた伊勢参宮道を西に曲げて城下を通るようにした。この頃には既に十日市には定期市が開かれ、宿駅の中心となっていたようだ。 その後関ヶ原の戦いまで、織田信長・豊臣秀吉の支配者のもとで、幾多の領主の変遷を経ている。 慶長6年(1601)の関ヶ原の戦い後、一柳監物直盛が5万石で入部。寛永13年(1636)幕府領。慶安4年(1651)石川総長が一万石で入部し三代続き、享保17年(1732)本多忠統が入部し、以後明治維新まで7代140年間城主として支配が続いた。 歴代藩主は陣屋住まいであったが、本多忠統のとき築城が許され、寛延元年(1748)に完成した。城を囲んで武家屋敷が約40数軒で、城下町は城の北に十日市町を中心として・石橋町・小山町・新町・菅町・常盤町・竪町・鍛冶町・新丁(西町)・河町・地子町があった。十日市町は前述のように中世から市が置かれていた最も古い町で、石橋町・小山町・新町とともに「本町四町」と呼ばれていた。 明和8年(1771)の幕府巡見使への報告によると、町数12町、家数・人数は享保17年(1732)に582軒・2,520人、他に武家屋敷40軒余り・武士約150人。天明8年(1788)573軒・2,173人。天保8年(1837)536軒・1,676人とある。 また神戸は伊勢参宮街道の宿場町としても発展し、十日市町が中核となり本陣や問屋もここに集中した。幕末には旅籠は19軒あり、常磐町に14軒もあり軒を並べていた。 伊勢参宮街道の宿入口は常盤町(現神戸8丁目)で木戸と番所が設けられていて、旅籠屋が1番多かったところで、早くから飯盛り女を置くことを許されていた。江戸初期には既に飯盛り女を置いた茶屋が8軒あったそうだ。 街道を南に下り、六郷川の大橋を渡ると、十日市町と新町に分かれる。この場所は札の辻と云われ、高札場があった。伊勢街道を下ると十日市町に入り澤田本陣跡があるそうだが、見つけられなかった。そして伊勢街道を進むと地子町(現神戸地子町)の宿の出口の六郷川には幸橋が架かりその手前には木戸が設けられていた。 今でも神戸2丁目・神戸8丁目の旧伊勢参宮街道沿いには古い町並が展開している。伊勢神宮に近い地域で多かった妻入りの家屋はここでは殆ど見られない。伝統的な様式の家屋は切り妻造りの平入り、中2階建てが多く、袖壁を備えた家も数多く見られる。街道筋は湾曲していたり「く」の字形に屈曲しているのは、城下町の特徴の見通しを防いでいるのだろう。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
神戸2丁目の町並 |
神戸2丁目の町並 |
神戸2丁目の町並 |
神戸2丁目の町並 |
神戸2丁目の町並 |
神戸2丁目の町並 |
神戸8丁目の町並 |
神戸8丁目の町並 |
神戸8丁目の町並 |
神戸8丁目の町並 |