那古野は尾張藩名古屋城の城下町の一つである。堀川に沿って展開するこの町は江戸時代には大船町と呼ばれていた。名古屋城の築城は慶長15年(1610)にはじまり、城下町の建設も同時に進められた。名古屋城下は台地上にあるため河川には恵まれず水利の便が悪かったので、徳川家康は物資輸送のため運河を開削させた。 そしてこの地域には、清須城下から商人を町ぐるみ移住させた。このことを「清須越」という。 清須越商人の移り住んだこの町は、堀川沿いに水運を利用して、米穀・塩・味噌・酒・薪炭などを城下町に供給したり、酒・味噌などに加工する商家が軒を連ね繁栄してきた。 大船町はもともと堀川西側だけの片町として計画された。道路と堀川水路との間に河岸蔵が建ち、道路を挟んで主屋がその裏手に土蔵が連なった。このようになったのは元禄13年(1700)の大火後の享保期(1716〜36)以降である。 元禄13年(1700)の大火の後、藩は土蔵の建ち並ぶ裏道を防火目的に4間幅(約7m)の道路にし、その道路の東側には塗籠造りの土蔵を建てるように奨励し、西側を1〜2間削って道路を拡幅した。これが今、四間道と呼ばれる道である。 元文年間(1740頃)にはこの四間道の東側には土蔵が、西側には商家が建ち並ぶ町並みが形成された。四間道の南北にその数、1千とも云われるほどの土蔵が軒を連ねたという。 その一つに伊藤家がある。「川伊藤」とよばれ、最初は薪炭を扱っていたが味噌を兼ね、穀物問屋と移り変わり、その後、煙草と米穀問屋となった。今でも、享保年間(1716〜36)建築の主屋や土蔵が残り、県指定文化財になっている。 享保年間(1716〜36)の大船町の家数34軒となっている。 四間道は当時としては画期的に広い道路で防災帯であっただろう。人・馬・荷車の往来で賑わっていたが、今では歩道もない狭い路地道に過ぎないが、ビルに囲まれた都心でこれだけの古い町並みが残っているのも貴重なものである。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 愛知県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 愛知県の歴史散歩上 山川出版社 愛知県高等学校郷土史研究会 1996年 |
四間道の町並み |
四間道の町並み |
四間道の町並み |
四間道の町並み |
屋根神様のある家 |
那古野一丁目の町並み |