関町は鈴鹿山脈の東麓にあり、古今東西往還の分岐点として交通の要所であり、古代には不破の関(岐阜県関ケ原町)、愛発の関(福井県敦賀市の南)と共に三関といわれた鈴鹿の関が置かれていたところであり、町名もこの鈴鹿の関に由来する。 亀山城の城主は関ヶ原の戦い後、関氏の後、松平・三宅・本多……とめまぐるしく交替したが、備中松山から入部した石川氏が廃藩まで140年ほど支配し、関宿もその亀山藩の支配下にあった。 中世から関は伊勢平氏の流れを汲む関氏の支配下にあり、旅人や近在の人々の信仰を集めた地蔵院には門前町が形成され、その集落(木崎・中町・新所)そのものが「関地蔵」と呼ばれるようになった。この関の地蔵を中心に次第に宿場町が整備されていくのであり、慶長6年(1601)には徳川家康の宿駅制度化により東海道53次の宿駅、関地蔵宿として発足し、参勤交代や伊勢参りなどの交通の拠点として繁栄していった。 江戸初期には亀山藩領であったが、元和元年(1615)から幕府領、寛永13年(1636)からは再び亀山藩領となり、明治維新を向える。 関町の町並みは両端をそれぞれ追分で限られ、西の追分では鈴鹿越えの東海道と加太峠越えの大和街道が分岐し、東の追分は東海道と伊勢別街道が交差し、それぞれに道標が残されている。 町並みの基本構造は天正年間(1573〜1592)に関盛信が付近の道路を改修し、木崎と新所の間に町(中町)を造ったもので、木崎・中町・新所の三町で関宿は構成されていた。中町には本陣2・脇本陣2や問屋場などが置かれ、主だった旅籠が集中していた。寛政12年(1800)には旅篭屋数55軒の内、中町に37軒・新所12軒・木崎6軒であった。 家数・人数は寛文11年(1671)493軒、享保8年(1723)545軒、寛政7年(1795)520軒・1824人で、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」によると、町並の長さ15町13間、家数632戸、人口1942人、本陣2、脇本陣2、旅籠42と記録され、東海道屈指の宿場町であったことがわかる。そして旧東海道の宿場町が殆ど旧態をとどめないなか、関では今なお東西の追分間約1.8kmにわたり、当時の宿場町の面影をそのまま伝える町並みが残っている。 町家の建築年代は最も古いもので18世紀中頃と見られ、19世紀初頭以降明治中頃までのものが多い。関町の町家は中二階建て、又二階建の平入りが一般的で、一部には平屋のもの、妻入りのものも見られる。 漆喰塗り込めで虫籠窓を持っていて、独特の意匠をもった虫籠窓が目につく。 関まちなみ資料館は江戸時代の町家を復元したもの、切妻造り、平入り、中二階建て、一階に連子格子、二階に虫籠窓を付け、帳場、箱階段、つし、かまど、井戸、ばったり(床几)などを配し昔の商家のムードを再現している。旅籠「玉屋」歴史資料館この玉屋は江戸時代より関宿で最も栄えた旅籠の一つである。二階正面壁面は塗籠めではなやかな虫籠窓を付けていて、玉の紋様は店のしるしである。 関町にはゴチャゴチャした土産屋などがなく、電柱のない昔のままの古い町並みがのこっている。全く江戸時代の風景であるのに、実際その町や町家で生活されている。只、平成9年に訪ねたときより、町並みの修復が進みきれいになっていたが、こんどは観光バスでやってくる団体さんが、我がもの顔で古い町並みを観光地と思ってカッポされる。保存の問題の原点であり、今後の成り行きを見守りたい。でも歴史や伝統が今に残った町並みの中をゆっくり散策するのが、町並みを見る醍醐味であることには変わりない。 三重県の歴史散歩 山川出版社 三重県高等学校社会科研究会 1994年 歴史の町並みを歩く 保育社 高士宗明 平成6年 関町史 関町 関町史編纂委員会 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 関宿パンフレット 関町教育委員会 歴史の町並み事典 東京堂出版 吉田桂二 1995年 |
中町の旧鶴屋脇本陣 |
木崎町の町並 |
中町の町並み |
中町の饅頭屋 |
中町の町並み |
中町の町並 |