東海道坂下宿は53次の宿場町として繁栄していたが、明治23年に関西鉄道が開通すると、宿場町としての機能は急速に衰退し、今では消滅しかかった町並の様相を呈していた。 坂下村に置かれた坂下宿は鈴鹿峠直下の宿場で、鈴鹿峠を越えて近江国土山宿へと通じていた。 慶長6年(1601)の東海道伝馬制度設定によって宿駅に指定されたが、室町時代からもうこの地は宿駅の機能を持っていた。慶長15年(1610)〜元和元年(1615)、寛永13年(1636)〜慶安元年(1648)の間は亀山藩領であったが、それ以外は幕府領であった。 天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によると、153軒のうち本陣3(大竹屋・梅屋・松屋)・脇本陣1(小竹屋)・旅籠屋48(大旅籠2、中旅籠9、小旅籠37)であり、総家数に対する旅籠屋の割合は34%にものぼり、東海道では箱根に次ぐ高率の宿場町であり、伊勢国・近江国の国境で難所鈴鹿峠を擁した重要な宿場で非常に賑わっていた。そして住民の殆どは旅人相手に生計をたてていた。とりわけ大竹屋本陣は「家広くして世に名高し」「本陣は海道第一の大家也」などといわれた東海道屈指の大本陣であった。 慶安3年(1650)の大洪水によって宿の大半が壊滅したため約1km峠下の現在の地に移ってきたものである。宿の町並は長さ5町56間であった。文化2年(1805)に大火があり、本陣3・脇本陣1などが焼失し、幕府から宿復旧費1,300両が貸し付けられている。 家数・人数は延享3年(1746)には160軒・584人。宝暦10年(1760)には158軒・611人。天保9年(1838)には152軒・543人。天保14年(1843)には153軒・564人であった。 脇本陣ははじめ鶴屋が就役したが、明和2年(1765)に休役したので、小竹屋が引き継いだ。 明治初年に宿駅制度がなくなり、明治23年に関西鉄道が開通し、東海道の交通量が激減したため過疎化が進んだ。明治22年の戸数312軒・人口1,250人だったのが平成17年4月では 戸数89軒・人口147人となってしまった。 宿場町だった辺りを歩くと、東海道一と言われた大竹屋本陣跡や梅屋本陣跡は茶畑になっていたし、小竹屋脇本陣跡は畑に、松屋本陣跡は集会場になっていた。大規模な宿場だったので、かって家が建っていたと思われる個所が多くあるが殆どは畑になっていたり、そのまま放置されていて、雑木林の中に石垣があったりと、寂れてしまった宿場町を目にすることができる。 主屋が無くて、土蔵だけが残っているのを見ると、寂れてしまったのだなあ、時代の流れに取り残されるとこのようになるのかと感慨無量になる。 でも所々に出桁造りの家屋が残っていたり、格子戸を備えた家をみるとほっとした。 三重県の歴史散歩 山川出版社 三重県高等学校社会科研究会 1994年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
関町坂下の町並 |
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