江戸時代の沓掛村は旧東海道沿いの村で、坂下宿の助郷村であった。 江戸時代はじめは亀山藩領、元和元年(1615)幕府領、寛永13年(1636)から再び幕府領。亀山封内風土記によると、享保2年(1717)の家数49・人数211とあり、天保14年(1843)の「東海道宿村大概帳」に家並約6町、往還どおり20町14間、並木100間で、農間に男は山稼や草履・草鞋を作るとある。 東海道筋が往来や伝馬で賑わっていたころには、この沓掛村を多くの旅人が通ったであろう。でも今は横を国道一号線が通っていて、この町並を自動車は勿論、人も通らない静かな集落になっていた。あの大きく賑やかだった坂下宿は、今では家もまばらな状態で、消滅寸前の印象を受けるが、少し下がった沓掛は伝統的な様式の大型家屋が連なり、江戸時代の通過集落だったとは思えない光景が残っている。 切り妻造り平入り、平屋や中2階建て,千本格子の家屋が連なり、軒先がそろった町並は統一感があり見事な古い町並が静かに眠っていた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
関町沓掛の町並 |
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