江戸時代のこの地は紀州藩の尾鷲組に属していた。水地村・天満浦・堀北村・野地村・中井浦・南浦・林浦・矢浜村・向井村・大曽根浦・須賀利村・行野浦・九木浦・早田浦の14村で構成されていた。 今回訪ねたのは、南浦だった朝日町と林浦だった林町の港に近い古い町並です。 江戸初期より海上交通が急速に発達し、大坂ー江戸を結ぶ海上に廻船の往来が激しくなり、尾鷲にも廻船が寄港し、材木や魚類を積み込んだ。享和3年(1803)の楯ヶ崎御番所日記によると、年間3,487艘の廻船が熊野灘を航行したとあり、その内の多くの船が尾鷲港に入ったことになる。 当地の主な産業は林業と漁業である。林業は寛永年間(1624〜44)土井家が尾鷲に移住し雑木林を切って木炭・薪の生産を行い、その跡地に杉檜を植林をはじめて以来急速に発展した。江戸中期には、植林奨励のため、杉檜の植林をした者に占有権を認めたので、益々林業が発達した。漁業は鰹・鮪・サヨリ・鰯・エビ漁が主であった。農業は貧弱で食料は1ヶ月分の自給だけで、11ヶ月分は伊勢米・尾張米に頼っていた。 地震・津波の被害も多く、宝永4年(1707)。嘉永7年(1854)の被害は大きかった。 さて今回訪ねた南浦・林浦は尾鷲の中心的な村であった。江戸の初期には南浦だけだったが、正保元年(1644)に南村と林村とに二分された。寛政5年(1793)の大差出帳によると、南浦は家数159・人数735・船数16(うち鰹船3・さっぱ船11など)・網数8とあり、「南浦の儀在半分は漁稼ぎ、半分は通り商人並に田畑耕作にて渡世仕申候」と記されている。そして林浦は家数151・人数733・船数27(うち廻船4・鰹船4・さっぱ船19)・網数10とあり、廻船が4艘もあり江戸まで航行していたと記されている 紀伊続風土記に林浦より南浦・中井浦・堀北浦・野地浦の五村、海湾の中央に東面して家居接続して市街をなし、普通の漁村と異なり、故に此五ヶ村をあわせて尾鷲の町という‥‥中略‥‥、農間6分・漁4分は山稼をなし、山海の利多く富豪のものもあり‥‥」とある。廻船問屋・米屋・酒屋・砂糖問屋・林業経営者などが住む町であった。 さて、今回訪ねた朝日町・林町は南浦・林浦と呼ばれていた所で、当時から漁業従事者が多く住む町だが、町並みを歩いても漁師町というイメージは殆ど無いように見える。海岸が近いので板張りの家が多いのは当然としても、平入り切り妻造りの平屋建て・中2階建ての伝統的な商家の建物ばかりが目に付いた。 急いで訪ねた訳でないが、林業の豪商「土井家」を訪ねなかったのは大失敗だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
朝日町の町並 |
林町の町並 |
林町の町並 |
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