九鬼浦の南にあり、クサビのように陸地に入り込んだ湾の最奥部に位置している。早田村(はいだ村)は慶長6年(1601)の検地帳には早田村と記され、戸数7。紀伊藩尾鷲組に属し、寛文(1661〜73)頃に早田浦と改称。寛政5年(1793)の大差出帳に家数45・人数248・船数26・網数12と記され、船は鰹船4・さっぱ船18など。網は鰹網5・細魚網2・名吉網(ボラ網)。 風待ち港として諸国廻船が入港し、船宿として阿波屋・喜平次屋など8軒があった。 明治2年の家数50・人数202・船数12・網数9とある。 安政元年(1854)の地震津波に40戸流失の被害を受けている。 急斜面にへばり付くように住宅が建ち並んでいる。傾斜地に建っているのは津波対策もあるのだろう。集落内には自転車が通れる道も無く、階段と細い路地道が全ての道路です。 階段で出会った方に、ここで家を建てるのは大変ですねと話しかけると、下から運び上げねばならないからなと云っておられた。 この地も過疎地だろうが、無住の家も目に付かず、割りに活気ある漁業集落のように感じた。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
早田町の町並 |
早田町の町並。これが道路です |
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