岡崎市の町並み 
八帖町通り・魚町・伝馬通り
地図


八帖町通りの町並
  愛知県のほぼ中央に位置する岡崎市は、徳川家康の生まれた所として知られている。
岡崎城を本拠としていた家康が、天正18年(1590)関東移封を命ぜられ、代わって入城してきたのは秀吉の家臣田中吉政である。田中吉政は大規模な城郭の整備拡張を行い、西と南は低地や川を利用し、東と北に塁濠を重ね、隅に櫓を構えた堅固な平山城を造った。
武家屋敷を城近くに配置し、大規模な城下町造りを行った。城の東・北・西に、田中堀と呼ばれる総延長4.7kmの総堀を掘り巡らして土塁を築き、乙川の南側を通っていた東海道を、乙川の北側堀の内に取り込んで町家(商人町・職人町等)を設けた。吉政は城郭の拡張、城下町の建設、矢作川改修と相次ぐ大工事を行い、岡崎城下町の基礎を作った。岡崎城下町は二十七曲がりと云われ、これは田中吉政が10年間かかって造りあげたものである。
その結果、岡崎城下は東海道53次の宿場町として、また矢作川の舟運・三州中馬の集散地として、近世を通じて西三河の水陸交通の結節点として繁栄した。
関ヶ原の戦い後、慶長6年(1601)に譜代の本多康重が入り岡崎藩が成立し、本多3代で藩政の基礎を固めた。その後、正保2年(1645)水野忠善が入封、7代100年にわたり在城した。宝暦12年(1762)下総古河から松平康福が入ったが、7年後の明和6年(1769)石見浜田の本多忠粛と所替えがあり、以後本多しは明治に至るまで7代に渡って在城した。
寛政元年(1789)の城下19ヶ町の家数1626軒・人数6331人(但しこれには各寺領門前町の人数や岡崎藩家中の人数は含まれていない)。安政5年(1858)の岡崎宿戸数調べによれば、本陣3軒・脇本陣3軒・旅篭屋122軒・寺領など合わせて家数は2507軒であった。
27曲がりを造った田中吉政は豊臣秀吉の家臣で、近江出身。入城して間もなくこの27曲がりの工事にとりかかった。その理由は「家康の攻めに備えて」だった。秀吉によって江戸という関東の田舎に追いやられてしまった家康の後釜に座ったので、家康にとっては恨みつらみもあったことだろう。田中吉政にしてみれば単身敵地に乗り込んだようなもの。いつ家康が攻めて来るかと気が気ではなかった。そこで生まれたのが27曲がりだった。
27曲がりもそうであるが、寺院に対しても寺領を押収し移転させる。また、家康の攻めに対する砦としての機能を備えることを強要し、敵の襲来を見張る高楼の設置、攻めに耐える頑強な壁など、岡崎の寺院がイカツイのはそのためである。
東海道と川とつなげて町を形成することで、岡崎は大きな繁栄を見、江戸時代に入ってからも、ますます城下町として宿場町として、また湊町として多くの人と物と情報が行き交い、岡崎は東海道53次の中でも有数の町として発展したのである。
こうして矢作川には多くの川舟(三十石舟)が行き交い、矢作川・乙川には荷物を積み下ろす土場が四つ築かれた。城の詰め米と領主の廻米や、一般商品の荷揚げや積荷が行われた。
幕末から明治にかけて、物資の流通はいちだんと多くなった。人や牛馬より効率のよい舟運に頼ったのは、明治初期が最も多かったといわれ、川舟が商品の流通を一手に引き受けていた。八帖町通りには岡崎名物の八丁味噌の商家が残り、今でも昔ながらの伝統的な製造技術を色濃く今日に伝えている。
町並み指数 40
参考文献
  岡崎・史跡と文化財めぐり  岡崎・史跡と文化財めぐり編集委員会 昭和59年
  愛知県の歴史散歩下  山川出版社  愛知県高等学校郷土史研究会  1995年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年
  岡崎27曲パンフレット  21世紀を創る会・岡崎     

八丁味噌のカクキュー

八帖町通りの町並み

伝馬通りの商家

   カクキューの味噌蔵

材木町の唐弓弦のある商家

岡崎信用金庫資料館
古い町並みに戻る