西尾市の町並み 
中町・肴町・天王町・伊文町・瓦町
地図


肴町の町並み

 西尾市は県南部、西三河平野の南、矢作川左岸流域の沖積低地に位置している。江戸時代の西尾城下は矢作川下流左岸、西南方に突出する碧海台地の末端に築かれた西尾城を中心とする城下町、現西尾市のほぼ中心にあたる。
西尾城と云われる前は西条城と呼ばれていた。桶狭間の戦い後、吉良氏は滅亡し、天正13年(1585)西尾城の修増築が行われ、天正18年(1590)には城主田中吉政(岡崎城主と兼任)が三の丸を構築し、近代城郭の形態を形成した。藩政期になり本多康俊から松平・本多・太田・井伊・増山・土井・三浦まで転封を繰り返し、明和元年(1764)松平乗佑になって藩主家は定着した。
寛永15年(1638)西尾藩主太田資宗が城下を包含する総構えの築造を計画し、正保2年(1645)太田氏に代わって藩主となった井伊直之が工事を受け継ぎ明暦3年(1657)に15年間を費やして完成した。この総構えと云うのは、城下町全てを包含して土塁・水濠(堀)を巡らしたもの。
武家屋敷地は郭内の一部(東の丸・三の丸)と城下町の外堀に沿って堀際に置かれ、その内側に町家を包みこむ形にした。
明和元年(1764)6万石の松平氏が藩主になると、それまでの2〜3万石の大名の城下では家臣を収容しきれず、外堀の外に武家屋敷地を造成した。
町人町として中町・肴町・横町・天王町・本町・須田町は表6ヶ町と云われる商業中心地であった。他に町人町は順海町・瓦町・塩町・会ゲ下などがあった。これらの町人町にも武士が混在して居住していたり、百姓屋敷も混在していた。この様に城下町西尾は武士・町人の混在型で、これに農民も混じっている特異な形だった。
町人の家数・人数は延享2年(1745)家数614・人数2,870。安永5年(1776)827・3,033。文政6年(1823)786・2,825とある。
今、西尾の古い町並みは西尾市の中心である肴町・天王町辺りで展開していた。この辺りは城下町が形成された時には表6ヶ町と呼ばれていた商業の中心地だったところ。江戸時代末期から明治・大正時代に建てられたであろう建物が連なる。切妻造り平入りの中2階建て・2階建ての商家建物だ。隙間なくぎっしりと建て詰まった町並みをみると、かって繁栄していた城下町当時の名残が色濃く醸し出されている。千本格子を残した家も多く見られる。肴町では電柱が地中化されているようで、すっきりした町並みが見られた。 
町並み指数 50
参考文献
  愛知県の地名   平凡社   下中邦彦   1981年
  愛知県の歴史散歩上  山川出版社  愛知県高等学校郷土史研究会  1996年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年

肴町の町並み

肴町の町並み

肴町の町並み

肴町の町並み、秋葉神社の屋根神様も

肴町の町並み

肴町の町並み

天王町の町並み

天王町の町並み

天王町の町並み

瓦町の町並み
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