佐久島は愛知県南部、三河湾中央部に浮かぶ三河湾最大の島。主な集落は西集落と東集落から成り立っている。 江戸初期には相模国甘縄藩領だったが、元禄16年(1703) には上総国大多喜藩領となる。 佐久島村の村高は「寛永高附」90石余、「元禄郷帳」99石余、「天保郷帳」「旧高旧領」ともに534石余。 伊勢・志摩と関東を結ぶ海上交通の要衝にあることから、江戸時代には海運で繁栄を築き、吉田(現豊橋市)と伊勢神宮の結節点としても栄えた。吉田・伊勢間は陸路では約4日かかるが、海路では最短半日で着くことができ、多くの参詣者に利用されたという。江戸時代には海運業が経済の中心であったが、東集落は主に漁業を、西集落は主に農業を経済基盤としていた。 明治21年の家数275・人数1,454。明治24年の家数335・人数1,395。 明治中期以降、外国との貿易が盛んになり、はしけが多く必要になったため、佐久島の小船が東京・横浜・名古屋への移住者となって出て行き、島では農業と沿岸漁業が行われた。 明治時代から戦前までは1,200人〜1,500人程度で推移した人口も昭和22年(1947)の1,634人をピークにし、その後は減少の一途を辿っている。平成2年には192世帯・493人であったのが、平成25年には262人となってしまった。 佐久島の海運業も太平洋戦争迄で、それ以降は細々と沿岸漁業と観光業が行われている。 今、集落内には現代アートと称したモニュメントが多く展示されていて、観光客を懸命に呼び込む努力がなされている。 さて、今の西集落はというと、閑散とした西港に下船したのは私を含めて3人だけ。多くの乗船者は東港までのようだった。それでも港に弁天サロンという佐久島案内や休憩所を兼ねた所があり、所員が居られたのにはびっくり。 西港近辺には旅館も食堂も休憩する店もなく、黒いコールタールの塗られた倉庫の様な建物が数棟建っているのみ。集落内は黒いコールタールの匂いを放つ黒壁集落で、細い路地道が迷路のように通っている。人がすれ違うのも気をつかう程の道だが人を見かけない。コールタール塗りの黒壁は冬季の北西からの潮風による被害を防ぐためだろうと思う。多分昔はコールタールでなく、魚油に煤を混ぜたものを塗っていた名残と思われる。 集落内には大葉家住宅への案内表示が各所にあり、訪ねたが中には入れなかった。案内文には庭には入れるとあったが、入ることはできず外から見るのみだった。 この西集落も過疎に悩む典型的な離島の状態を見る様な島だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 愛知県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
一色町佐久島西港付近の町並 |
一色町佐久島西港付近の町並 |
一色町佐久島西港付近の町並 |
一色町佐久島西港付近の町並 |
一色町佐久島西港付近の町並(左側は大葉家住宅) |
一色町佐久島西港付近の町並 |
一色町佐久島西港付近の大葉家住宅 |
一色町佐久島西港付近の町並 |
一色町佐久島西港付近の町並 |
一色町佐久島西港付近の町並 |