近世初期に開拓された新田がそのまま地名になったところで、江戸中期ころからは初瀬表街道(伊勢表街道)も通るようになり、半農半商の町並が形成された。 飛鳥・奈良時代より皇族の狩猟場ないし薬草採取地として、一般人の立入りを禁じる料地であったと思われる。 江戸時代になり、承応3年(1654)津藩の開発事業の一環として、この地に鍬が入れられた。 この地はもと美濃原と呼ばれる原野であったが、藩の開墾奨励政策により、伊賀加判奉行 加納直盛が開発を計画し、土木技術者の西島八兵衛の協力を得て、滝之原村に大池、上小波田村に東ノ峡間池をつくり、水路開削もすすめて入植者を募った。入植者には優遇策が講じられたが、新墾地の成績は良好でなく、開墾3年目にあたる明暦3年(1657)には農家185戸で、総生産高1,130石、一戸辺りには6俵に過ぎなかった。多くの脱落者も出たが、寛文元年(1661)には戸数140になり、この年初めて48石余の年貢を上納した。 その後、明暦4年(1658)には東ノ峡間池、延宝3年(1675)には大池が決壊した。その復旧工事の一環として、高尾字出合(現青山町)の前深瀬川から14kmにも及ぶ水路(幅約90cm)を山間に開通させ、新開田の水利は安定した。 それでも苦しい新田開発事業を、宿駅収入で補足させようという藩の政策で、それまで初瀬表街道は名張から小波田村を経て阿保(現青山町)に通じていたものを、この新田を経由させるルートに変更している。その結果街道に沿って街村ができ、旅籠や商店が並ぶようになった。そして明治16年当時でも村民の1/3は商業であった。 寛延頃(1748〜51)の戸数154・人数701とある。 今でも、宿場町当時の面影を色濃く残し、旧街道にそって平入り切り妻造りの中2階建ての家が連なる。当然今は仕舞屋となっているが、旧街道を歩くと新田用水路堤に立つ大きな常夜灯をはじめとして宿場町当時を彷彿とさせる。 三重県の歴史散歩 山川出版社 三重県高等学校社会科研究会 1994年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
新田の町並 |
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