三重県西部に位置する名張は陣屋町であったが、初瀬街道(伊勢表街道)が通る宿場町でもあった。 天正9年(1581)の伊賀の乱後、筒井定次が伊賀に入り、上野を本拠とすると、名張には松倉重政が任ぜられ、簗瀬村の現丸の内に城(陣屋)を構えた。これ以降簗瀬村は城下町として発展する。 筒井定次改易後、慶長13年(1608)藤堂高虎が新領主として伊賀上野城に入り、家臣梅原勝右衛門が名張に赴任した。その後、寛永13年(1636)藤堂高吉が伊予から名張城主として来任し、そのまま明治維新まで、名張藤堂家がこの地を支配したが、実情は家臣格で、独自の行政は行えなかった。 藤堂高虎は上野に入って、直ぐに安濃津(津市)に移り、津藩初代藩主となった。そして伊賀国内では上野・名張・阿保(青山町)の三町以外での商売を禁じたので、これが名張の発展の要因になった。藤堂高吉は以前からの陣屋を整備して居館とし、武家屋敷を丸之内と柳原町に置き、名張川の河岸整備や初瀬街道の沿った町並を整備して、小規模ながら陣屋町の体裁を整え、簗瀬村の発展の基礎が築かれた。 いわゆる「名張八ヶ町」は、初瀬街道に沿って、新町・本町・下横町(現中町)・榊町・松崎町が屈折しながら続き、それに枝町として鍛治町・上横町(現上本町)・瀬古手(現元町)があった。 初瀬街道が西国からの伊勢参宮の主街道であったため、江戸中期以降は宿場町として賑わい「簗瀬宿」には多くの旅籠屋・茶店のほか本陣(鍛治町の辻家)・脇本陣(松崎町の小竹屋)もあった。(名張は行政区画としては簗瀬村であった) 寛延(1748〜51)頃の家数540・人数2,141であった(宗国史)。これに武家屋敷に住む御家中94・人数777を合わせた約2,900人が簗瀬村の人口であった。明治5年の人数は3,064人であるから、江戸期を通じて人口増は緩慢であった。 明治32年に名古屋〜大阪湊町間を結ぶ関西鉄道(現JR関西本線)が開通し、北伊賀を通過するようになり、名張の宿場町は機能を失い陸の孤島となってしまった。昭和5年に大阪と山田(現伊勢市)を結ぶ参宮急行電鉄(現近鉄大阪線)が開通し、大阪まで1時間で行ける様になって、今では大阪への通勤圏として住宅開発が活発に行われている。 今、古い町並は旧初瀬街道沿いに屈曲しながら続いている。東から上八町・松崎町・榊町・中町・本町・新町と続く。造り酒屋が二軒も伝統的な様式の建物で営業をされている。それだけでも古い町並であるが、それ以上に屈折した街道に沿って古い町並が続く。間口の広い平入り、切り妻造りの中2階建ての建物で、虫籠窓・煙り出し・格子を残した家も多く、往時の宿場町の面影を色濃く残した町並が残っている。 おかげまいりと云われて、人々が昼夜の区別なく宿場町を闊歩した様相が今にも再現できるような町並であった。 三重県の歴史散歩 山川出版社 三重県高等学校社会科研究会 1994年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
松崎町の町並 |
上八町の町並 |
東町の町並 |
元町の町並 |
新町の町並 |
本町の町並 |
本町の町並 |
本町の町並 |
本町の造り酒屋 |
新町の造り酒屋 |