今回訪ねたのは、江戸時代は廻船業で栄えていた所で、西端村と云い明治11年に11ヶ村合併で内海村になったところ。 江戸時代の内海は知多半島南部第一の米の産地であったが、廻船業を営む者が多く元禄4年(1691)に西端村と東端村とで合計112艘、10,725石積もあり内海船の名で知られていた。内海船は特に尾張・伊勢の米穀を江戸・大坂に運び、内海米船と呼ばれたが、塩やその他の物資も運送した。天保13年(1842)頃には総数200艘にも及んだ。船は千石船(弁財船)で200石から1000石積、またはそれ以上の大型船もあった。 内海川の西岸の西端村は「寛文覚書」によると、家数94・人数566。「徇行記」によると「内海川河口に民家連り古くからの湊なり、往古より家数多く、漁をして生活し、富む者もあり、村中瓦屋建て並び良い村」とある。船持ちは40戸程あり、大船4艘、100石以上のいさば船30艘、小船21艘がある。漁家が6戸あり酒屋が1戸あり、小商人が多数いるとある。 内海川東岸の東端村は「寛文覚書」によると、家数108・人数663。「徇行記」によると「廻船を主業とし、農商を兼ねるものもあり、富家が混じり、瓦屋軒を連ねる」とある。廻船業者26戸があり、米塩などの諸商品を積み紀州方面から西国長門国辺りまで航行した。 元禄4年(1692)のには船数46艘で石数4,450石に達した。 訪ねたのは夏の海水浴シーズンであったので、旧西端村の海岸は内海海水浴場として大変賑わっていた。海岸部には旅館やホテル・民宿・保養所等が多く建っていたが、それらの宿泊施設に混じって、僅かだが古い形式の家屋が点在していた。 愛知県の歴史散歩上下 山川出版社 愛知県高等学校郷土史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 |
内海の町並 |
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