五ヶ所浦は五ヶ所湾の最奥部、五ヶ所川の河口に位置する。天然の良港として、東は英虞湾、西は熊野へ通じる航路の中継港であった。 江戸時代は紀州藩田丸領で終始し、この地方の行政・経済・文化の中心地であった。集落ははじめ五ヶ所村で、後に農業を中心とする東部の山方(五ヶ所村)と、農業のかたわら漁業にあたる西部の浦方(五ヶ所浦)と分かれた。 享保3年(1718)の山方の高337石余、家数69。享保4年(1719)の浦方の高149石、家数77・人数326・船14・網14。安永2年(1773)には山方の家数72・人数487。 当地は湾の最奥のため、近隣緒村と海域上の紛争を起こし、漁業も余り期待できず、新田開発も地勢上大きくは望めず、江戸出向の奉公人を多く見た。 江戸時代は半農半漁での生活だったが、明治5年には漁業法制定により、海に面する村全てに漁業権が与えられた。明治初年には茶業が導入され、明治27〜28年頃から養蚕業に変わり、活況を迎えたが化学繊維の発達によってそれも衰えた。次に発達したのはミカン栽培で、大正期になって本格的となった。ミカン栽培は江戸時代から行われていたが、大正期になり爆発的に発達した。五ヶ所湾では明治後期から御木本氏による真珠養殖が行われ、活況を呈し、昭和31年〜35年頃がピークだったが、海水の汚染により、アコヤ貝の自然繁殖が見られなくなり、今では見る影もない。今はハマチ・タイ・のりの養殖業が盛んに行われている。 古い町並みは旧熊野街道に沿って展開している。この地では伊勢地方に多かった切り妻造り妻入りの建物は少なくなり、平入りで切り妻造りの建物に混じって、寄せ棟や入母屋造が見られる町並みだ。海岸地域で入母屋が見られるのは珍しいものだと思う。瓦は全て桟瓦葺だった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
五ヶ所浦の町並 |
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