松阪市の町並み 
魚町・本町・殿町・紺屋町
地図


魚町の商家
  南北朝時代から 伊勢の国司は北畠顕能で、以後九代の具房まで、約230余年間、北畠家は伊勢の国司で、南北朝の時代から戦国時代へ移ったが、殆ど戦いもなく農村一帯は平和だった。
永禄12年(1569)織田信長の軍勢は伊勢に大進攻し、北畠の立て籠る大河内城を攻めるが、50日に及んだ戦いでも決着がつかず、信長の次男信雄と北畠との養子縁組が結ばれて和睦となった。ところが天正10年(1582)に織田信長は本能寺の変で49歳の生涯を閉じ、信長の跡目争いで秀吉は織田(北畠)信雄と不和となり、天正12年に秀吉は蒲生氏郷をして、織田信雄の家老滝川雄利が立て籠る松ケ島城を攻略し開城させた攻により、12万石を与えられて松ケ島城主になった。
氏郷は地形の狭い松ケ島より南に見える四五百森の丘陵地に城を築き、天正16年(1588)入城するとこの地を松坂と名付けた。また城下町の建設も積極的に進めた。楽市楽座の町として商業を保護し、松ケ島、大湊、日野などの商人を集め、海岸近くを通っていた参宮伊勢街道を城下に引き入れ、この街道を主軸に商工業者を配置した。近江日野の商人は「日野町」に、伊勢大湊の海の商人「角屋」を「湊町」に配置した。
その他本町、中町、平生町を街道筋に配置し、商人、職人の同業者を中心に大手町、工屋町、紺屋町、博労町、油屋町、鍛冶町、下職人町、白粉町、櫛屋町、新町、大工町、魚町などが形成された。また町の中心部と外周部には神社、寺院を配置した。
町の道筋は付け替えた新街道を含め全て最初から巧みに屈折させて、遠見がきかないようにし、城下町全体を外敵より守り、市街戦にも備えた道筋造りであった。更にその道筋の各所に神社、寺院を点在させ防衛の要とした。
関ヶ原の戦い後、めまぐるしく城主は代わるが、元和5年(1619)に徳川家康の十男頼宣が紀州藩主になると、松坂は紀州藩伊勢領となり松坂城には伊勢領18万石を統轄する代官、城代が置かれ、以来松坂は城主なき城下町となり、商業町、宿場町としての道を歩むことになる。
氏郷が開いた松坂では、その後氏郷の商業振興の政策が見事に開花し、江戸時代には今の三越の「越後屋」三井をはじめ、長谷川、小津、中川、長井、殿村ら木綿を主商品として活躍し、これらの豪商たちが、正保から延宝(1644〜1681)のころ江戸に進出し、宝暦年間(1750)ころには江戸店持ちは50家を数えた。
松阪商人の館が公開されている。旧小津清左衛門家住宅で江戸時代には三井家、長谷川家、長井家等と共に、いち早く江戸に出店を構え財をなした松坂屈指の豪商だ。主だった建物は17世紀末から18世紀初頭に建設されたもで、主屋は切り妻造り、桟瓦葺、真壁の虫籠窓、うだつをあげ、格子、犬矢来を付けている。
もう一筋南が魚町で、長谷川家のあるこの辺りは今も商人町当時の面影をよく残している。長谷川家は江戸時代の木綿問屋「丹波屋」で、現在も東京で繊維を扱う商社を営む300年来の商家である。主屋は18世紀前半の建物といわれ、屋根両端にうだつをあげた切り妻造り、桟瓦葺の重厚なもの、格子、オダレ、妻入りの土蔵など当時の松坂商人の隆盛ぶりがうかがえる。
城跡の東側に御城番屋敷がある。道を挟んで両側にマキ垣に囲まれた二棟の長屋が連なる。紀州藩伊勢領に派遣された40石取りの紀州藩士20人とその家族が住んだ組屋敷で文久3年(1863)に建築された。主屋2棟、前庭、畑、南竜神社、土蔵よりなる。今も子孫の方が維持管理し整然と住まわれていて、松阪を代表する景観である。東棟10戸、西棟9戸で松阪市は一戸分を借用し、復元修理した上で一般公開していた。
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参考文献      
  三重県の歴史散歩  山川出版社  三重県高等学校社会科研究会  1994年
  夢とロマンの松阪城ものがたり  松阪ライオンズクラブ  服部哲雄 他  平成8年
  松阪の文化財案内  松阪市教育委員会  平成2年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58年   

本町の松阪商人の館

魚町の商家

御城番屋敷

魚町の町並み

殿町(同心町)の町並み

御城番屋敷
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