松阪市射和町・中万町の町並み
射和町・中万町
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射和町の町並
 松阪市射和町や中万町には大きな屋敷を構えた豪商の邸宅が数多くある。彼らの多くは伊勢商人・松阪商人として伊勢白粉や木綿を扱い、江戸店を持つ豪商の本宅だったのである。
隣接する丹生産の丹砂(水銀鉱石)を加工して造る軽粉(俗に伊勢白粉)によって中世以来繁栄したのである。
射和は松阪よりずっと以前から繁栄していたところで、そのもとになったのが水銀加工業である。射和に近い勢和村丹生は古代から日本最大の水銀産地として栄えていた。中世にはいりこの水銀を利用した軽粉製造業が射和に発生した。室町時代後半以降、伊勢神宮の御師が布教とともに各地に軽粉を持ち運び、伊勢白粉として全国に知られた。明治になるまで軽粉業は繁栄を極め、最盛期の室町末期には釜元が83軒もあり、上之町・御蔵町・中之町・下之町・天王町・裏町・新出町・西町・片町・船之町・川原通り・宮屋敷・西新出などの町割があり、戸数も500以上を数えたという。この繁栄が射和に大量の富をもたらした。
美容薬・皮膚病などの外用薬・化粧料・駆梅剤・堕胎剤として用いられた。
名産の軽粉や木綿を扱う射和商人は、江戸時代初期から江戸や京都・大坂に松阪木綿の店を出して大成功したのが、松阪商人の先駆けである。著名な豪商に富山家・家城家・国分家・竹川家・山本家・長井家・小野寺家などがある。
安政4年(1857)の家数348軒・人数1,280人とある。
射和村の江戸時代ははじめ鳥羽藩領、延宝8年(1680)幕府領、天和元年(1681)から再び鳥羽藩領であった。中万村の江戸時代は初め幕府領、寛永12年(1635)から津藩領である。
中万村も伊勢商人の発祥の地として知られ、軽粉や木綿を扱う紺田家・堀木家・竹口家・山上家などの豪商がいた。寛延年間(1748〜51)の家数171軒・人数699人であった。
今、町並を歩くと,豪商の邸宅も時代の流れと共にその大部分は姿を消していったが、町中にはなお往時の繁栄を偲ぶものが多く残っている。
射和町には「亀甲大」印醤油の国分家、射和文庫まで作った竹川家、中万町にはわらべうたにまで歌われた富山家、「ちくま味噌」の竹口家、その他小林家など多くの豪商の子孫が営々と現在まで家督を継いで、大きな屋敷や邸宅を維持されていた。
町並み指数 50
参考文献
  三重県の歴史散歩  山川出版社  三重県高等学校社会科研究会  1994年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58年
  三重県の地名  平凡社  下中邦彦  1983年      

射和町の町並

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中万町の町並

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