松阪市飯高町宮前は三重県中央部西側、櫛田川の上流域左岸に位置する。 寛永18年(1641)の検地帳に「滝野村」と記されているが、「元禄郷帳」には宮前村と記されている。「三国地誌」「天保郷帳」「旧高旧領」には「滝野村」と記載されているが、明治6年に宮前村と決められた。 江戸時代はじめは松阪藩領、元和5年(1619)から紀州藩松阪領となる。もともと産土神の門前に出来た集落で、和歌山街道の宿駅として交通の要衝であり、本陣や伝馬所が置かれ、高札場でもあった。 和歌山街道は紀州藩和歌山城下と紀州藩松阪城下を結ぶもので、紀伊半島を東西に横断し、海上交通に比較して大いに短縮するものであった。徳川頼宣が紀州に封じられ、元和9年(1623)から参勤交代路として利用され、松阪・大石・宮前・波瀬が宿場と定められた。 だが、延享元年(1744)の第6代藩主宗直の帰国を最後にこの街道の利用が無くなった。街道筋の百姓や人足では足りず、助郷はもとより、旅籠の不足、膨大な出費に耐えられず、和歌山街道を通らないよう懇願した結果で、それ以後伊賀越えになった。 だが、それ以後も藩主夫人などがこの街道を通っていて、勢州奉行を中心とした沿道の住民の苦悩は大きかった。 安永2年(1773)には旅籠が8軒もあり、この地域の在郷町的な性格も持っていたと思われる。明治2年の家数93・人数399で産物は煎茶・串柿・芋茎などであった。 今、古い町並みは花岡神社を中心に旧和歌山街道に沿って左右に展開している。平入りであったり妻入りであったりするが、花岡神社の東側には大型の商家建物が点在し、西側は比較的小さいが、これも商家建物が連なっている。多分宿場町全盛期には花岡神社東側には本陣や大型旅籠・大店などが並んでいたのだろうと察せられる。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
飯高町宮前の町並 |
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