桑名市の町並み
川口町・江戸町・片町・京町・吉津屋町・鍛治町・新町・伝馬町・鍋屋町・矢田町
地図
桑名は木曽三大河川(木曽・長良・揖斐川)の合流部という美濃・尾張・伊勢をつなぐ交通上の要衝にあったので、すでに室町期には米穀・木材の集散地また港町として発展していた。戦国期の史料によれば「十楽之湊」とか「十楽の津」とか呼ばれ、商人たちが自由に取引のできる楽市楽座的な自治都市としての色彩を帯びていた。 永禄10年(1567)織田信長は伊勢に侵攻、桑名はその支配下に入りやがて近世城下町へと変貌することになる。 関ヶ原の戦い後の慶長6年(1601)本多忠勝が入封した。 本多忠勝は入封後、桑名城下の町割を行い、港町であったのを城下町に改造し、桑名の町並みの原形をつくった。また、桑名の守護となっていた一柳直盛が築いた桑名城を拡張し、慶長15年(1610)に10年を要して天守・二の丸・三の丸・朝日丸・武家屋敷などを完成させた。 その後も、藩主は松平家に移るが、城郭は順次改築され、「海道の名城」と称賛されたが、元禄14年(1701)の桑名大火で天守閣をはじめ櫓を類焼、その後城は復興されたが天守閣は再建されなかった。 慶長6年(1601)には東海道の宿駅に指定され、宮駅(熱田)へ海上「七里の渡し」の渡船場となった。東海道の道筋は、渡船場の川口町から江戸町・片町・京町・吉津屋町・鍛冶町・新町・伝馬町・鍋屋町・矢田町・福江町・大福村・江場村・安永村を通った。 東海道桑名宿としては、桑名町は延宝7年(1679)には武家屋敷754軒・9648人、町家1864軒、12520人と約22000人の人口を擁する町であった。木曽三大河川は沿岸に大きな水害をもたらす反面、桑名はこの三大河川を利用して商業・交通の要地として発展した。 天保14年(1843)の東海道宿村大概帳によれば、桑名宿内人口2544軒・8848人、本陣2・脇本陣4・旅篭屋120軒であった。 木曽川・長良川・揖斐川が合流する河口に位置するため、これら河川上流の美濃地方との結びつきが強く、米を中心に日用品全般にわたり物資流通の拠点であった。 しかし、水運を中心として発展してきたが、港が河口であるため水深が浅く、大型船の入港が不可能で、また、河川に挟まれて面積が狭く、近代的な施設は隣接の大山田村に移転、特に明治27年には関西鉄道(現JR関西本線)桑名駅が大山田村に設けられ、交通の中心地は移ってしまった。 桑名の江戸時代を代表する産業に鋳物業があり、辻内家と広瀬家が鍋・釜の生産と共に寺院の梵鐘なども生産していた。 七里の渡し跡から町並みを歩きだした。七里の渡し跡もその海側(川)を治水工事で埋め立てていて、伊勢神宮一の鳥居と松以外は当時を偲ぶものは残っていない。桑名宿の町並みも第2次大戦で焼けたのと、昭和34年の伊勢湾台風でやられて、古い町並みは殆ど残っていない。七里の渡し跡近くには、旅館・料理店が多くある。これは東海道宿駅時代の名残のようだ。川口町から歩き出し、春日神社を経て江戸町・京町と旧東海道筋は石畳が敷かれているが、当時を偲ぶ建物は全く残っていない。吉津屋見附跡まで来ても何も残ってない。鍛冶町を過ぎ東鍋屋町まで来ると、広瀬鋳物工場跡の説明文が表れたが、史蹟は何も無い。そして東矢田町まで来ると、梵鐘を軒先に置いた民家が現れた。江戸時代の鋳物産業の名残の様である。そして国道1号線を横切った西矢田町辺りから少しづつ、古い町並みが現れてきた。 矢田立場の櫓ハシゴを見て左に折れると、福江町の旧東海道の町並みが続くが古い町並みは全く現れなかった。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の歴史散歩 山川出版社 三重県高等学校社会科研究会 1990年 |
よつや通りの町並み |
東矢田町の町並み |
東矢田町の町並み |
西矢田町の町並み |
西矢田町の町並み |
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