西枇杷島の江戸時代は下小田井村といい、青物市場の小田井市場があることで知られ、名古屋の台所を賄っていた。 下小田井村は江戸期を通じて尾張藩領で、江戸期の後期には代官所支配に置かれていた。 慶長15年(1610)以降の清洲越により名古屋への移動がはじまった。庄内川を渡る渡船場が設けられたと推定されるが、数万人の住む清洲から名古屋への全ての移動は渡船ではとても無理と思われる。そこで枇杷島橋が架橋されたと思われるが、この架橋の時期が元和8年(1622)とも慶長13年(1608)とも云われている。清洲からの移動を考えると慶長13年と見るのが妥当のようだ。 この橋の袂に小田井市場が開かれていた。はじめは清洲城周辺の人口の多い所に蔬菜を提供していたが、架橋によって濃尾平野の農村生産地帯と消費地名古屋との連結地点として最適な地となり、位置的に市場の発展を決定的なものにした。取り扱った品目は蔬菜の他、海産物・薪炭・綿・茶・寒天など多種にわたっていた。 枇杷橋ができてからは市場の繁昌と共に、橋詰に商家が徐々にでき、毎日市が立つようになった。そして庄内川の堤防の上にも数百戸の商家が軒を連ね、街道筋と市場を中核とする商業の町の基礎ができたのです。 寛文11年(1671)には、家数436・人数1,865であった。小田井市は熱田の魚市場に対して枇杷島の青果市場として城下町名古屋の台所を預かっていた。かっては江戸の神田・大坂の天満と共に三大青果市場と言われていたほどだった。 今、伝統的な古い町並で連続して展開しているところは僅かだが、中2階建ての商家の建物が建ち並ぶ、旧美濃街道筋は古い町並と呼ぶに相応しいと思う。切り妻造りで平入りの虫籠窓や格子を備えた家、屋根神様を揚げた家など、古い町並を構成する要素が至る所で目に付いた町並だった。 この地にお住いの方からご指摘を受けました 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 愛知県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
西枇杷島町南松原の町並 |
西枇杷島町南松原の町並 |
西枇杷島町南二ツ杁の町並 |
西枇杷島町南二ツ杁の町並 |
西枇杷島町南二ツ杁の町並 |
西枇杷島町南二ツ杁の町並 |
西枇杷島町南二ツ杁の町並 |
土器野の町並 |
土器野の町並 |
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