城下町清洲は徳川家康によって、城下のもの全てが名古屋城築城に伴って名古屋に移転した珍しいケースです。移転したものは、当時の清洲の人口6万から7万人全てで、政治・経済の中心地として繁栄していた都市が、短期間にそっくり移転したのは歴史上でも珍しいケースである。 清洲城は応永12年(1405)に尾張守護となった斯波義重のときに築城したといわれ、永禄年間(1558〜70)織田信長が清洲城主となると、市場における取引を自由にして商人や職人の特権を認めた。これにより清洲は飛躍的に発展し尾張の中心都市となった。しかし急激に城下町の商工業の発展を図ったために人口の集中に悩まされ、文禄2年(1593)秀吉は清洲城下に対して、以前からの住民で無いものは農村に帰すという政策を打ち出している。 江戸時代になり、慶長15年(1610)に徳川家康の命により突如城下町清洲の名古屋への移転、「清洲越」 が行われ、慶長18年(1613)に完了した。「思いがけない名古屋ができて、花の清洲は野となろう」と唄われたように、移転したものは清洲城内のすべて、神社3、寺院100余り、70近い町や町並全部、五条橋に至るまでが名古屋に移された。 その上に慶長19年(1614)には台風被害に合い、移転に伴い廃墟と化していた清洲付近も洪水に見舞われ、更に大きな痛手を受けた。 この廃墟を新田とする作業が、僅かに残った旧住民によって行われた。この清洲新田は14の分(村)からなっていた連合体の村であった。 清洲には名古屋から大垣にでる美濃路が通り、宿駅としての性格も持っていた。元和2年(1616)内北市場分桑名町に宿駅が置かれたが、寛文8年(1668)に火災があり、本陣、問屋場などの宿駅施設が焼失し、宿場は同地から現在の清洲2丁目(新明町)に移転され、宿場町として明治になるまで機能していたが、以前のような賑わいは取り戻せなかった。 清洲を訪ねたのだが、肝心の旧宿場を訪ね損ね、旧宿場から五条橋を渡った旧美濃街道沿いの清洲本町辺りの古い町並を歩いたのです。造り酒屋さんのある町並で、短い区間ですが、見事な町並を形成していた。 愛知県の歴史散歩上 山川出版社 愛知県高等学校郷土史研究会 1996年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 愛知県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
清洲本町の町並 |
清洲本町の町並 |
清洲本町の町並 |
清洲本町の町並 |
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