熊野灘に南面するリアス式海岸に立地し、熊野灘の好漁場を控えた沿岸・遠洋漁業中心の町。 古くは長島村とも云われたが、江戸時代は長島浦と呼ばれていた。古くから漁業中心の浦であった。「紀伊続風土記」では「船がかりありて廻船集まる。また志州鳥羽・勢州山田などに通便なるをもって村中最繁昌す」と良港のことを記している。 江戸期は紀州藩領。延享3年(1746)の家数454・人数2,616(8歳以上)。網数350、うちエビ網280・鰹網24・地引網5。船数99、うち鰹船25・さっぱ船30・漁船32・名吉船5。 天保10年(1839)の家数540・人数2,491。伊勢海老・鰹・名吉・ムロアジなどの漁が盛んであったと紀伊続風土記に記されている。 漁業を主体にした集落であったが、薪炭の生産も盛んで、元禄15年(1702)には御仕入方役所(炭役所)が置かれた。その他、船大工6・家大工4・鍛冶2・桶屋2・山伏2・酒屋15などもあり商工業も発達した町だった。 熊野灘に面しているため、地震や津波の被害が多く、宝永4年(1707)には全家屋が流失し、500人余りが死亡。嘉永7年(1854)には480軒余が流失、310軒が浸水、23人死亡している。津波の度に藩の援助や村の頭立衆の努力で復興している。 今、町並みを歩くと、漁村集落そのもののである。平入りの間口の狭い町屋が並んでいる。壁面に板張りが多いのは、漁村で海に近いからだろう。ただ自然発生的な町割りでないのは、津波による家屋流失のたびに、人工的に規則正しく町割りされたからと推測できる。 町を歩き地元の方と話すと、漁業集落だったが、今では漁業に従事されている方は2割もおらないでしょうとの話でした。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
長島区長島の町並 |
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