亀山市の町並み
本町三丁目・本町四丁目
地図


 本町三丁目の町並
 亀山市街地は近世亀山城を中心とした城下町として、また、東海道の宿場町として発展した。
天正18年(1590)松阪城主蒲生氏郷が会津に移封されると、それに従って関一政は陸奥国白河城(現福島県)に移り、亀山城には岡本宗憲が入った。宗憲は若山にあった亀山旧城の東南に本格的な平山城を築き、ここに近世亀山城下の基礎が出来上がった。
しかし、宗憲は慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで、西軍に属したために滅亡し、亀山城主は美濃国から再び関一政が移封された。その後目まぐるしく藩主の交代や幕府領になったりした変遷を経て、延享元年(1744)譜代の石川総慶が入封し、11代126年間石川氏の支配が続いて明治維新を迎えた。
亀山城は歴代の領主によって改修増築が加わり、石川総慶が入ったときには、城内には本丸・二の丸・三の丸、城主の居館である向屋敷などがあった。侍屋敷は西の丸・東の丸・江ヶ室・市ヶ坂・東台・渋倉前・南崎など、家格に応じて城郭を中心に同心円状に配置され、家老・年寄など重臣の屋敷は東三之丸・南三之丸に置かれていた。
城下の町人町は東町・西町で構成され、それぞれに亀山宿の問屋が置かれ、助人馬や伝馬などの継送り問屋業務を交代で行っていた。寛文頃(1661〜73)の亀山両町の長さは19町26間(東町12町46間・西町6町40間)、家数370軒であった。
「東海道関亀山問屋同心掟控」では、寛政7年(1795)改は家数、東町263軒・西町165軒の合計428軒。人数1,743人であった。
東町には樋口本陣、椿屋脇本陣があり、旅籠屋は両町合わせて21軒あったという。享和3年(1803)東海道亀山宿分間図には、街道筋に並んだ本陣(樋口太郎兵衛)・脇本陣(椿屋)をはじめ旅籠・遊女屋・米問屋・魚屋・酒屋・質屋などが見られる。
今、西町・東町等の旧東海道筋は商店街になってしまい、古い町並は殆ど残っておらないが、それに続く本町三丁目・本町四丁目には僅かだが古い町並や古い伝統様式の民家が点在する。切り妻造り平入り、中2階建てもしくは2階建ての建物が旧東海道に沿って建っている。
城下町時代の町人町の中心地の東町は旧東海道筋が拡張されて、県道になり古い町並は全く残っていなかった。
町並み指数 50
参考文献
  三重県の歴史散歩  山川出版社  三重県高等学校社会科研究会  1994年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58年
  三重県の地名   平凡社  下中邦彦  1983年   

本町四丁目の町並

本町四丁目の町並

本町四丁目の町並

本町三丁目の町並

本町三丁目の町並

本町三丁目の町並

本町三丁目の町並

本町三丁目の町並
古い町並みに戻る