岩倉市下本町の町並み 
下本町
地図


下本町の町並み
 岩倉は尾張平野の中央部にあり、木曾川の形成した犬山扇状地の末端に位置する。
名古屋と犬山を結ぶ柳街道(岩倉街道・犬山街道)沿いに発展した商業の町。
尾張の中世は岩倉城の織田敏広が上4郡(葉栗・丹羽・中島・春日)を、清須城の織田敏定が下4郡(海東・海西・愛知・知多)を分割して支配していた。岩倉城下は尾張上4郡の政治の中心地として、また城下町として栄えていたと思われるが、永禄2年(1559清須城の)織田信長に攻められ落城し、この時の兵火により町は灰燼に帰し詳しくは判らない。
慶長5年(1600)関ヶ原の戦い後、尾張の重要性を思い、徳川家康は、四男の松平忠吉を清須城に置いて尾張を支配させたが、忠吉が慶長12年(1607)に急死すると、家康九男義直が尾張を領した。岩倉は江戸時代を通じて尾張藩領。
兵火により中世末には衰退していた岩倉の町並みも、慶長年間(1596〜1615)頃には復興し、犬山街道沿いを中心に町並みが形成されていった。享保12年(1727)には六斎市が開かれるようになった。
天保村絵図によると、村域内を南北に幼川(五条川)が流れ、その西にほぼ平行して犬山街道(柳街道・岩倉街道)が通る。寛文11年(1671)の家数369・人数2,085。
「徇行記」によると「此村落ハ往古織田家上郡ノ城府ノ跡ナルカ故ニ、於今、町並アリ、即犬山街道ナリ、本郷ハ上市場町・中市場町・下市場町と分レリ、農舎商店入交リ軒ヲツラネ繁昌ノ地」とある。
上市場永代帳による天保6年(1835)の上市場・中市場・下市場の諸商人・職人は米屋・米饅頭屋が各9軒、綿屋・質屋・万屋・豆腐屋が各7軒、饅頭屋・茶屋が各6軒、紺屋・織屋・桶屋が各5軒、木綿屋・刺し綿・粉屋が各4軒、他に材木屋・酒屋・宿屋・蝋燭屋など178の商工業者がいて、村人の42パーセントが商工業に従事していた。
今、旧犬山街道(岩倉街道)に沿って、古い町並みが残っている。切妻造り平入りの伝統的な様式の家屋が点在している。中2階建てであったり2階建であったりするは、何処の町並みでも同じだが、この町並みには白漆喰の家屋が見られなかったのはどうしてだろう。また間口が広い商家建物も多く見られるのは、江戸期の豪商の証だろうか。
でも名古屋への通勤圏のベッドタウンとして賑わっている駅の近くなのに、かっての賑わいが無く、商業地とは言えないほどひっそりとした住宅街になっていた。
町並み指数  40
参考文献
   角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  1989年
   愛知県の地名  平凡社  下中邦彦  1981年

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