起村は美濃路七ヶ宿の一宿であった。慶長5年(1600)に美濃路の宿駅と指定された。 この頃7軒の百姓が居ただけだが、宿駅に指定されてから他より引越してきて16軒の宿駅となった。 寛文12年(1672)には家数102・人数578。元禄6年(1693)家数147・人数731。寛政4年(1792)家数205・人数1,034。慶応3年(1867)家数146・人数1,172であった。 起村は小村のため一村で宿役を負担できず、元和2年(1616)に冨田村・西五城村を加宿とし、更に寛永6年(1629)に小信中島村・東五城村を加えて、これらを起五ヶ村と呼んだ。本陣は加藤右衛門七・脇本陣は林浅右衛門。 起宿は美濃路の内でも最も旅籠屋が多く、天保14年(1843)の起宿大概帳によると旅籠が22もあった。また本陣や脇本陣も大きかった。これは起宿から大垣宿までの間に木曽川・長良川・揖斐川と三つの渡しがあり、川留めになると滞留客が増大するためだった。 また、この地域の近世を特色づけるものに綿織物がある。明和(1764〜72)頃京都西陣から桟留縞の技術が伝わった。更に菅大臣縞の技術が京都西洞院の火災によって美濃に移り住んだ機業者によって伝えられ、文政期(1818〜30)には関東の結城から伝えられた結城縞が織られた。ことに文政以後この結城縞が生産の中心で諸国に売られた。 弘化2年(1845)の起村人別改帳によると家数262軒の内、旅籠屋・木賃宿・茶屋は14軒、往還人足・川場中瀬稼22軒、船頭19軒、本陣・脇本陣各1軒の総数57軒が交通を生業としていた。更に織屋職45軒他織物を生業とする家が70軒。商業39軒、農業53軒とあってかなり町場化していたことが伺え、ことに織物業と宿場として繁栄していたようだ。 そして幕末頃には絹綿交織の結城縞生産を中心に、高度な生産形態を形成し、明治以降さらに一段の発展を見せ、買継問屋の手を経て関西地方に多く出荷された。 今、古い町並は木曽川沿いの旧美濃路沿いに展開している。土蔵や平入り中2階建てで虫籠窓や千本格子を残した商家の建物、袖壁を備えた家など、宿場町や織物の町だった当時の面影が色濃く残っている。本陣・問屋・脇本陣跡が残り、脇本陣跡は歴史民族資料館になっていた。 この町並が比較的古い形態を残したままなのは、この旧美濃路の通行が周りの交通網の発達で利用されなくなり、昔のまま残ったようだ。又町並の北半分は木曽川の土堤の上で南半分が土堤の下というのも不思議な町並構成です。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 愛知県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 愛知県の歴史散歩上 山川出版社 愛知県高等学校郷土史研究会 1996年 |
起の町並 |
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