三雲町市場庄の町並み 
市場庄
地図


北邑の町並
  三雲町は三重県の中央部の海沿いにあり、南の松阪市と北の県都津の中間に位置している。
町並みは周辺を水田で取り囲まれた平坦地にあり、旧伊勢街道に沿って町並みが展開し、街道に妻を向けた町家や土蔵が連なった独特の佇まいを見せている。南北朝時代から室町時代には、国司北畠氏が雲出川以南を押さえていて、市場庄も北畠氏の支配下であった。そして織田信長の伊勢侵攻で信長の、続いて豊臣秀吉の支配下に入り、慶長5年(1600)の関ヶ原の戦いの後、津城には藤堂高虎が入ってきて、市場庄もその支配下であった。
元和5年(1619)からは和歌山紀州藩松阪領に属した。伊勢街道は西国または東国と伊勢とを結ぶ幹線道路である。伊勢街道は近世以前には今より当時の海岸に近いところを通っていた。
天正16年(1588)に蒲生氏郷が、松阪城を築き城下町を整備した際、今の道筋が整備され、道沿いに新しく集落ができたのだという。市場庄の家数は元禄7年(1694)には134軒(元禄7年大差出帳)、明治2年では99軒で8歳以上の人数が男198人、女211人(明治2年大差出帳)であった。文化年間(1804〜1818)作成の「伊勢路見取絵図」には平入りと妻入りの家並みが描かれ、中ほどに「札場」がある。三渡川の南岸にあたる市場庄の北側の六軒は、伊勢と大和を結ぶ初瀬街道と伊勢街道の合流点で、江戸屋・山田屋・など旅篭屋が立ち並び、常夜灯も建立され家数も元治元年(1864)には35軒に増加していた。
明治11年には、8軒の宿屋があり、3月の一ヶ月間には8133人が宿泊していた。(「諸願伺届書記簿」岩崎家文章)随分賑やかなことであったようだ。
町並みは概ね南北に通じている旧伊勢街道に面して主屋を設け、町並みの延長は約1300m程である。街道には直線部分が殆ど無く、緩やかに蛇行したり、少し強く曲ったりと、自然地形なりに形成されていったことが示唆される。
街道に面して建てられた家は、半農半商の家が多く、旅篭屋・煮物売屋・茶店など旅人相手の店を営み、農業の傍ら、小遣い稼ぎを行っていた。
市場庄の建物の建築年代は、古いもので19世紀中頃であり、殆どのものは江戸末期から明治期にかけて建築されたもののようである。土蔵は主屋と同様に江戸末期から明治期と考えられている。
市場庄の町並みで特徴あるのは、間口いっぱいに主屋、木戸、土蔵又は納屋を建てていることである。街道に面してそれらを敷地境界に連続させることによって、奥に表から干渉されない領域をつくっている。現在のような家屋群を通りに連ねる町並みは、江戸末期にはには定着していたようである。
市場庄の伝統的な家屋の建てかたは、主屋を妻入りにし、敷地の北側いっぱいに建てることによって、南側にまとまった広さの庭を確保していることである。切り妻造り妻入りの商家の間取りでの共通点は、街道に面した主屋の中央より南側に出入口を設け、その南側に「女中部屋」、その奥に「だいどころ」・「かって」などの部屋が続く。太陽の良く当たる南側に井戸・へっつい・かまどなどを持ってきている。出入口の北側には「みせ」「なかのま」「ざしき」などが並び、北側には殆ど窓などの明り取りを設けないことで、隣家との干渉を避けている。
建物の外側は板張りで、伝統的な家屋には漆喰壁は使用されていない。板張りの外壁は伊勢辺りの家屋と同様である。
町並み指数 60
参考文献      
  伊勢街道市場庄の町並み  日本ナショナルトラスト  菅原洋一  平成10年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58年


南邑の町並み  

北邑の町並み

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