伊勢市河崎の町並み 
河崎
地図


河崎の町並み
昔、お伊勢参りは庶民の「せめて一生に一度」の願いでもあった。伊勢の町はこの伊勢神宮とともに町が造られてきた。内宮の門前町が宇治、外宮の門前町が山田でその二つを中心に町が造られてきた。
そして市場町、物資集散の港町としての河崎、内宮と外宮をつなぐ参宮街道沿いに発達した遊里の古市、おかげ参りの人々の“精進落し”の歓楽街として賑わった。
河崎は室町時代後期の長亨年間(1487〜1489)のころ、北条氏の遺臣河崎宗次が勢田川中流部の低湿地を埋め立てて、惣門と環濠を備えた町造りを行ったとされている。
このころ山田の町は伊勢平野の農産物と、志摩地方の海産物の交換地となり、市が開かれ市場町として発達した。
そして中世から近世にかけて、伊勢神宮に庶民の参詣が増加し始まると、山田は次第に市場町から門前町へと性格を変えていき、代わって山田の外港としてその役割を担ったのが河崎であった。この時代の寛永20年(1643)の家数678軒・人数2352人であった。
河崎は勢田川の水運を利用して、卸し売り中心の市場町、物資集散の港町の役割を担い、山田住民と膨大な参宮客に必要な生活消費材を供給する台所として発達した。
河崎が最も繁栄を誇ったのは、江戸時代に起こった「おかげ参り」によるもので、集団参宮といわれる「おかげ参り」は周期的に起こり、膨大な参宮客が伊勢に押し寄せた。このおかげ参りは宝永2年(1705)・明和8年(1771)・文政13年(1830)に起こった。例えば宝永2年(1705)には360万人もの参宮客が伊勢の地を訪れた。
この大勢の参詣客の台所を預かった河崎商人には、米と魚の卸販売権を与え、莫大な需要の安定をはかったので、河崎商人は経済力を蓄積し、その繁栄は明治、大正の頃まで続いたが、物資の輸送がトラック輸送に変わるにつれて、河崎の商業は徐々に衰退していった。
伊勢の町並みは河崎に代表されるように、切り妻造りの妻入りの家や土蔵が、通りに建ち並ぶ町並みにその特徴がある。平入りの多い日本の伝統的町並みの中にあって、ノコギリの歯のような妻入りの町並みは日本では非常に珍しいもので、独特の美しさをもっている。
妻入りの家は伊勢神宮の御正殿の平入りに遠慮して造られたものといわれ、いかにも神都伊勢らしく、その美しさはどっしりとしていて重厚なものである。
家紋や屋号を入れた鬼瓦をいただく屋根は、反りや起りがあり、主屋は破風板、土蔵はアクセントに使われた漆喰の白さが更に切り妻の美しさを強いものにしている。家や土蔵は一尺の下見板を細い木(押えぶち)で張り付けた、外囲いで覆われていて、煤と魚油で練った防腐剤で黒く塗られている。
この外囲いは、建物の本体を雨や風から守り、40年位経って痛むと取り替えるように作られている。主家の妻側の二階部分の外囲いは、他よりせり出して造り、出格子とあいまって強い調子を感じさせる。
河崎の町並の特徴の一つに、土蔵がある。土蔵は内蔵と外蔵があり、内蔵は主家に接して建てられており、家財道具の収納庫である。一方外蔵は営業用倉庫として利用され、7割以上が勢田川沿いに建てられていて、主家と外蔵は道を隔てて建てられていることが多い。これは河崎の町並みの大きな特徴である。
河崎を歩いていると、江戸時代にタイムスリップしたような錯覚に陥る。電柱がなければそのまま時代劇の映画のセットになりそうである。こんな町並みが何の保護もなく、何の規制もないままに、どんどん破壊されていくのは寂しいものだ。
あちこちの国指定の重要伝統的建造物群保存地区を見て歩くが、どの地区に比べても、古い町並みとしては何ら遜色なく。河崎の方がもっと早く指定されて当然と思うが。
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参考文献
  三重県の歴史散歩  山川出版社  三重県高等学校社会科研究会  1994年
  歴史の町並みを歩く  保育社  高士宗明  平成6年
  伊勢の町並み  日本ナショナルトラスト  中村賢一 他  昭和55年
  角川日本地名大事典  角川書店  角川日本地名大事典編纂委員会  昭和58年

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