伊勢市大湊町の町並み
大湊町
地図


大湊町の町並
 大湊は宮川の支流大湊川と勢田川・五十鈴川の合流点の三角州に位置し、大湊港は神社港と共に12世紀頃から伊勢神宮の外港として、更に神宮奉仕者及び住民の生活物資の取扱い港として栄え、江戸に入ってからは宇治山田の外港として栄え、廻船問屋や船宿が軒を並べ、同時に造船業の盛んな地域であった。
江戸時代は伊勢神宮領であり、神領のため村高は不明であり、「元禄郷帳」「天保郷帳」とも「不知」と記している。
江戸時代に爆発的におこるお陰参りの、物資需要を満たすために大湊港は大いに栄えた。廻船問屋の角屋はその代表的な豪商であり、桑名屋・山田屋・浜松屋・大文字屋・信濃屋などの船宿が軒を並べていた。
しかし、江戸末期に勢田川水勢の変化で港湾が埋没し、また安政元年(1854)の大地震で港湾施設が大被害をうけたことから次第にその繁栄を鳥羽に奪われていった。
それでも総戸数463戸のうち110戸は船荷日雇・船乗渡世・船宿・廻船問屋などを生業としており港は依然として活況を呈していた。
大湊は造船業が栄えた所として知られている。大湊の立地とともに、宮川上流に船舶建造に適した材木が豊富にあったことも要因と思われる。織田信長が九鬼嘉隆に命じて造らせた6艘の大船も大湊で造られ、豊臣秀吉の朝鮮出兵の折、九鬼氏の「日本丸」も大湊で造られた。
寛永7年(1630)徳川家光の命により伊豆国伊東でつくられた安宅丸の棟梁は当地の内田三郎衛門で、船大工の多くも当地から雇われたものだった。
尚、大湊では造船業との関連で船釘鍛冶が200戸以上にも達し、鉄工業も発達していた。
明治5年の職業別戸数は工業255・雑業110・商業31・農業58・その他9とある。工業の内訳は鍛冶111・船大工100・木挽16・その他28とあり、造船業と鉄工業が盛んであったことが伺える。
天保14年(1843)戸数400余戸のうち鉄工業者は過半数を占めていた。
明治に入ってからも造船業と鉄工業は繁栄を続けた。今に続く木材加工機械メーカーもこの地から出たもので、今もこの地で頑張っておられた。
町並みはかっての港に沿って展開している。港が栄えていた頃の名残は殆ど残っておらないが、切り妻造り・2階建妻入り・板張りのこの地方独特の民家が連なる。営業されている民家は少なくなっているが、商家建物の形式を伝承した古い伝統的な家屋は多く残っていた。
町並み指数 40  
参考文献
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会  昭和58年
  三重県の地名  平凡社  下中邦彦   1983年   

大湊町の町並

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