犬山市の町並み 
本町・練屋町・新町・中本町・余坂・鍛冶屋町・下本町
地図


丸の内の町並
  犬山市は木曽川を隔てて岐阜県と接する愛知県最北に位置している。木曽川を眼下にそびえる犬山城は室町時代末期に築かれた城で、姫路、松本、彦根と並ぶ国宝四城の一つ。その中でも最古で個人所有の城だという。
 この城下町として栄えた犬山の町には、城下町らしい町並みと、昔の面影を残す家屋も数多く残っている。犬山城は天文6年(1537)信長の叔父織田信康が木ノ下(現愛宕神社)からこの地に移した。そして慶長4年(1599)犬山城主石川備前守光吉は金山城(岐阜県)を解体して犬山城に移築したともいわれ、天守閣などの城構えが整い、近世城下町への改造が行われたのは、関ヶ原の戦いの後に城主となったのは尾張藩主松平忠吉の家老小笠原吉次の時代である。
その後、元和3年(1617)に尾張藩付家老成瀬正成が3万5千石の城主となり、地形を巧みに利用して平山城の城郭と、防備と経済的繁栄をねらいとした町割りの城下町を完成させたのは三代正親のときである。以後九代正肥のとき、明治維新を迎えるまで成瀬家が代々城主を勤めることになった。
廃藩置県によって天守閣を除くほとんど取り壊され、明治23年の濃尾地震で天守閣が大破した。その際に修理を条件として旧城主成瀬正肥に譲渡されて今日に至っている。全国で唯一の個人所有の城である。城の主要部分の構造・形態は室町末期のもので、現存するなかで最も古いといわれている。
犬山の町並みについては、成瀬正成が入部する以前、石川光吉や小笠原吉次によって、ほぼ、その基本となる形を整えていた。即ち木曽川を背にして城郭を構え、その前方に南北にわたる直線的な五本の道路と、東西にわたる道を、所々で、T字形に交差させた四本の道路を骨格にした、ほぼ、長方形の町割りである。
町の中央部に町人地をおき、武家町はそれを取り巻くように配置され、町全体を土居や堀で取り囲んでいた。寛政期(1789〜1801)に書かれたと思われる「犬山並城属山城番地絵図」の「添書」は町並みの変遷にも触れている。上本町・中本町・下本町・名栗町・外町・鵜飼町を西六町と呼び、練屋町・鍛冶屋町・横町・魚屋町・熊野町・寺内町を東六町と呼ぶと記されている。又、同添書では、町方家数については675軒とあり、職人や農民は335軒で約50パーセント。商家の数は340軒50パーセントである。町並みの構成については、士農工商の方針に沿って町割りがなされ、上本町・中本町・下本町などいわゆる本町筋は商人を集中させ、上本町とT字形で結ぶ横町・魚屋町や酒造業者の多い練屋町・鍛冶屋町筋は、商人や職人を多く住まわせた。
なお、真宗四ヶ寺を集めた寺内町がある。犬山城の前身である木ノ下城の北の防衛として、中世に創建された寺々であるが、後に城が木曽川南岸に移ると、この城の南防衛拠点ともなった。
昔の面影を残す町並みは新町、本町、練屋町辺りである。本町通りには上本町・中本町・下本町があり、犬山城の正面の通りで、上本町には大手門、問屋場、高札場などがあった。
余坂町に、犬山市で唯一公開している商家の奥村邸がある。江戸時代には呉服屋を営んでいた商家で、主屋と表蔵は天保13年(1842)の犬山大火で焼失後、間もなく再建されたものである。主屋の外観は切り妻造り中二階建て、黒漆喰塗りこめの虫籠窓、平入り桟瓦葺きの大型の町家である。
公開はされていないが新町に「米清」旧宅がある。米清旧宅は江戸時代末期から明治・大正にかけて活躍した犬山商人小川家の屋敷。明治22年に建てられたと云われる。米清の屋号は江戸末期の豪商時代からのもので、米の商いをしていたという。明治・大正には製糸業を行い、現在土間に残るトロッコの車跡は、裏の納屋で繭を乾燥させた名残である。          
町並み指数 50
参考文献
  犬山市史  犬山市  犬山市史編纂委員会
  愛知県の歴史散歩上下  山川出版社  愛知県高等学校郷土史研究会 1995年
  角川日本地名大辞典  角川書店  角川日本地名大辞典編纂委員会

丸の内の本町の町並み

練屋町の忍冬酒の造り酒屋

新町の民家

中本町の商家

余坂の奥村邸

本町の町並
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