稲沢市の旧稲葉宿は「尾張志」によると慶長5年(1600)とあるが、「地方古義」では清洲宿の設定が同7年(1602)、再整備を元和2年(1616)とするので、この前後と推定されている。 寛文末年頃(1672)頃の「寛文覚書」によれば、尾張藩領 清洲代官支配で稲葉村の家数は122軒・人数727人で、文政5年(1822)の「徇行記」によると、家数259軒・人数1,003人であった。 美濃路は東海道の宮宿から分かれて北西に向かい、名古屋宿・清須宿・稲葉宿・萩原宿・起宿・墨俣宿・大垣宿・垂井宿で中山道と合流する、約60kmの脇往還道路であったが、東海道と中山道を結ぶ街道のため、主要街道なみの通行者があったようだ。 それが為とは思わないが、明治に開通した東海道線も東京から名古屋までは東海道に沿い、名古屋からは美濃路・中山道に沿って京都に入っている。 稲葉宿は稲葉・小沢両村で宿駅業務を行う合宿で、宿内の町並みは8町21間あり、清須宿へ一里半、萩原宿へ一里半であった。 本陣は一軒で小沢村に、脇本陣も一軒で稲葉村東町にあり、旅籠は7軒あった。稲葉村は東町・中町・西町の3区に分かれていた。 享保16年(1731)に六斎市が認可され、朝鮮通信使通行には仮御茶屋をも建てられた。 今町並みには県道も国道も通っておらず、昔のままの古い町並みが残った。 切り妻造りの平入り、中2階建・2階建ての商家の建物が連なり、虫籠窓も備わった重厚な建物の町並みは落ち着いた佇まいであった。 多くの家では、一階の格子をガラス窓に、中2階の虫籠窓もガラス窓に改装されてはいるが、伝統的な商家の建物の雰囲気は十分に残っていた。 名古屋のベットタウンとして、発展著しい町であるが、旧稲葉宿の町並みは何時までも残って欲しいものと思う。 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 1989年 愛知県の地名 平凡社 下中邦彦 1981年 |
稲葉3丁目の町並み |
稲葉3丁目の町並み |
稲葉3丁目の町並み |
西町2丁目の町並み |
西町2丁目の町並み |
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