伊賀市上野市街は三重県の北西部、上野盆地のほぼ中央に位置し上野台地上にある。 江戸期は慶長13年(1608)藤堂高虎が伊勢・伊賀に入り本城を津に置いた。上野には大坂方(豊臣方)に備えるために城を築き、城下町の造成にかかったが、天守閣は工事半ばにして暴風雨のため倒壊し、その後は一国一城制のため城は再び建てられることなく、庁館が置かれ明治維新を迎えた。 城下町については、上野城本丸と南の外堀の間(丸の内)は重臣たちの屋敷にあてられた。その他の侍屋敷は、城の東の「二の丸」と西北の「三の丸」、丸の内の堀を隔てて西の「西の丸」、それに丸の内と堀を隔てて南にある東西三筋の町家の外に「外輪」という住居があった。これが現在の忍町で、そのまた外に足軽が住んだ「鉄砲町」があった。寺院は城の東南に配して防衛の要とした。ちょうど町家は侍屋敷に南北から挟まれた恰好になっていた。 町家については丸の内の堀の南に東西三筋の町……すなわち本町筋(片原町、東町、中町、西町、向島町)、二の町筋(鍛冶町、魚町、小玉町、福居町)、三の町筋(相生町、紺屋町、三の西町、徳居町)の三筋に商人や職人を住まわせ、三筋町といわれた。この三筋町の町人を優遇し、商売免許を三筋町のみに与えるというものであった。この中でも大和街道の宿場町を兼ねた本町筋は最も賑わいを見せた。三筋町以外は全て枝町で商売が禁止されたが、本町筋の東の延長街は自然発生的に都市化していった。 町方の戸数については享保12年(1727)三筋町戸数414軒・4099人、枝町戸数1,765軒・7,096人とある。 伝統的な家屋の町並みは本町通り、二之町通り、三之町通りの各町、赤坂町、農人町、西忍町などに見られる。本町通りの西町に伝統的な商家が連なっている。切妻造り、平入り、中二階、塗り込めの虫籠窓、格子で、駒寄せがある家もあった。 もう一筋南側の二之町通りの、魚町、小玉町に醤油屋、味噌屋が多くあり、切り妻造り、平入り、中二階、塗り込めの虫籠窓、格子の建物が連なって建っていた。三之町通りの徳居町、紺屋町、相生町にも古い町並みがあり長屋門のある茅葺屋根の武家屋敷(入交家)(公開)もあった。三之町通りの一筋南の西忍町の中の立町通りには、武家屋敷の姿が残る赤井家(公開)があり屋敷の廻り全部に駒寄せが設置されていた。 三重県の歴史散歩 山川出版社 三重県高等学校社会科研究会 1994年 角川日本地名大辞典 角川書店 角川日本地名大辞典編纂委員会 昭和58年 三重県の地名 平凡社 下中邦彦 1983年 |
上野農人町の町並 |
上野農人町の町並 |
上野相生町の町並 |
上野相生町の町並 |
上野福居町の町並 |
上野魚町の町並 |
上野相生町の町並 |
上野西町の町並 |
上野幸坂町の町並 |
上野向島町の町並 |
上野向島町の町並 |
上野忍町の武家屋敷 |